2014年3月10日月曜日

3・11の教訓と東京五輪

明日3月11日は、どの新聞紙面もテレビも『3・11』で溢れかえっているはずだ。なのであえて今日、この内容で記したい。
         
『非常事態』が起こるとする。
それは大きな衝撃を与え、我々は戸惑う。
そして、その事態にどのように対処するか、問いを繰り返すこととなる。
その過程は、多くの場合何らかの答えらしきものが出るような、出ないような、妙な状態である。特に個人の場合には、結論を誰かに求められたり、その期限を突きつけられたりすることが無いためにうやむやで、結論は先延ばしだったり、実行すると決めても対応はズルズルになってしまう。
そしてほとんどの場合、その問いの繰り返しはいつしか風化して、自然消滅状態もしくは停止状態となってしまう。
過去の歴史の一コマに組み込まれ、はるか遠くから眺める風景になってしまう。喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのである。誰しも経験あることだろう。
どんな悲劇や困難も時間の流れの中で記憶が希薄になり、次第に忘れ去られてゆく。あるいは語り継がれる物語となる。生々しい体験から生じ、共有された感情は残念ながら失われてゆくのが必定なのであろう。
これは人間が長いことつらい状況に直面すると、心を次第に日常性へと立ち戻らせるため、過去の悲惨さを思い起こさないようにする、という人の持つ防衛本能とも考えられる。だからこそ生きていられるということも事実なのだが。
         
とてつもない悲劇は自然の中に生きている以上しばしば生じるし、しかも自然災害は繰り返される。その大災害から人々が立ち上がってゆく過程でも、同じように次第にその記憶を過去のかなたへと追いやり、次第に忘れてしまう。
東日本大地震「3・11」もこの例外ではない。
(自然災害ではないが、先の大戦の惨禍も同じようなものだろう)

こ難しい哲学的なことを言えば、自然災害ははたして神仏の意志なのか、それとも近代科学の知見に基づいて純粋に自然界の現象と受けとめればよいのか、この二つの考えは両立できるのか、私たちは『自然』とは何か、とあらためて問わなければならないだろう。
小生のような田舎の自然相手の生活であると、個人的には神仏の意志と考える方が精神のあり方としては近いものがある。
         
地震大国日本において何をおいても優先されるべきは、リスクの分散だろう。
他でもない、東京一極集中の危うさについて懸念である。
ちょうど「3・11」から3年経ったが、あれから後、首都直下型地震の可能性は再三報道されているが、一極集中の是非はほとんど議論にならない。
さらに、「3・11」の際の東京大混乱の記憶も人々の記憶にまだまだ生々しく残る中で、東京で五輪を開催することも決まった。

五輪は東京一極集中をより加速させることになるはずだ。
東京へ更なる巨額の資本を投下してインフラ整備がすすめられる。今表面化してきているいろんなインフラに起因する矛盾もある程度解消されよう。きっとより快適な街に変化するのであろう。そうなるとますます各種機能も人も情報も東京に集中することとなる。
東京だけが歪(いびつ)にリスクともに巨大化してゆくという危うい発展が続く。
日本国民、特に直下型地震の想定地域に住む方々は、学習効果がないようだ。
先の東日本大震災は、東京に比べたら人口密度がずっと低い地域で、諸機能も東京の比ではない場所だったから被害はあれで済んだのではないか。加えて被災後の混乱の中にあってあのように秩序だって理性的な群衆行動が見られたのも、彼の地だったからこそできたものだろう。地域コミュニティが都市部よりはまだまだ機能しているからかもしれない。東京があのような混乱で済むとはとても思えない。

考え過ぎ?   偏った考え? 田舎者の僻み?    やはりどこおかしい。
         
物理学者であり随筆家でもあった寺田寅彦は、「災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである」と、人工の造営物増大の危うさを説いている。今日の文明とは比べものにならない1934年(昭和9年)のことである。
関東大震災の調査も彼は学者として行っている。震災後に進められている復興を見ながら、彼は思うところがあったのであろう。慧眼である。

防災と抱き合わせで五輪は準備すべきだといった評論家の意見はもっともながら、はたしてそれで良いのだろうか。根本的な解決にはならぬと思う。余りにも不自然な東京だから。
どう考えればいいのだろうか。小生のような貧弱な頭で考えても、地方への機能分散しかないと思う。目先の利害を捨ててすぐにでも行動に移すべきだと思うのだが。

だいぶ前、国の方針として(お偉い方々・有識者が集まり検討したはずだが)、首都機能を栃木県の那須地区あたりに移転させるという結論を出したと記憶している。案の定ウヤムヤになってしまっている。つまりは、自然災害は記憶の彼方に去ってしまっていて『まあ大丈夫なんじゃないの・・しばらくは。根拠はないけど…。』といったところなのだろう。
予想通り首都に直下型地震が発生し、甚大な被害を蒙る時が来ても一時のことだから良いのだろうか。いずれ記憶の彼方に追いやり忘れてしまうから良いのであろうか。我々の子や孫、そのまた子の代の事かもしれないから良いのだろうか。よもやそんなことはあるい。
目の前の不都合なことや困難なことに目をつぶるのは容易いが、単なる問題先送りでしかない。
         
自然の猛威を可能な限り回避する科学の知恵ももちろん必要であるが、あまりに現代人は自然への畏敬の念、祈りを忘れてしまっている。高慢、傲慢、あまりに尊大である。自然を克服できた・できると考えたとしたらなんとも不遜である。思い上がりも甚だしい。
現代人が自然を甘美なもの、心を癒やすものとみなすのは、都市型住民の求める景観としての自然に過ぎない。自然とはもっと厳しい。

この東京一極集中とそのリスク問題は極めて難しい課題だ。完全な解決などあるまい。だが、自然は待ってくれない。
できることから急いで進めることだ・・と思う。国会移転だってかつてあれだけ叡智を集めて決めたのではなかったか。。大騒ぎして決めたものを全く反故にするのだろうか(移転に反対の勢力も確かに存在するだろうけれど、このままでは大いなる税金の無駄遣いだったということになる。それを許す国民にも反省は必要だろう)。

非常事態の発生は避けられないのだから、個人でできること(事前のサバイバル準備)を怠りなく実行して備える。
そして非常事態が不幸にも発生してしまったら・・。
幸いなんとか生き伸びられたとして、便利で快適な都市生活神話が崩れた街で、さて次どうする??

行動は、そうなってからか、そうなる前にか。。
         
田舎は何処も似たようなものだが、ここにも『ひとり農業』のテーマソングの感がある井上陽水「少年時代」の歌の心象風景が広がっている。
ひとり農業、みなさんもご覧になってますよね。。あんな場所です。
  も
  も
も。

0 件のコメント:

コメントを投稿