2012年12月31日月曜日

里山の四季変遷 トップ画像集

今年も今日で最後となった。
このブログも駄文を連ねてきたが、稚拙な文章を写真で誤魔化してきたことは否めない。
ここに今年一年のブログトップに掲載した写真(定位置確認写真)を集め、里山の四季の移り変わりをご覧いただきたいと思う。
毎日眺めている風景だが、こうやって連続してみると実に美しい風景の変遷であることがよくわかる。

来年もまたよろしくお付き合いください。
2012/01/22

2012/02/17
雪が降った朝


2012/02/23
2012/04/04
2012/04/29
2012/05/02
2012/06/05
2012/06/26
2012/07/21
2012/08/14
2012/09/02
2012/10/01
2012/11/10

2012/12/03

2012/12/22

2012年12月30日日曜日

山桜実生

日本の代表的な桜であるソメイヨシノは自家不和合性(同じ種類同士での受精ができないこと)が強く、実が付かないために種子からは決して増えない植物である。

いま目にするソメイヨシノは、すべて人間が接ぎ木して増やしてきたものであり、同じ遺伝子を持つクローンである。
園芸店等で販売されているソメイヨシノの幼苗木も、すべてが土台として山桜(山桜は容易に種から増やせる)の木を使い、そこにソメイヨシノを接ぎ木している。
苗木下の方に接ぎ木した跡のコブや保護テープが巻かれたりしているのを見つけることができる。
それくらいソメイヨシノは増やすのに手間がかかる代物と言える。

         

と言われると、やってみたくなる性分である。
材料も場所も時間もたっぷりある。
無いのは経験だけだ。

昨年の2011/5/31ブログに山桜の実を拾ってきてポットに播いた事を記した。

あれ以来ときどき覗くことはあっても実質的に放置状態で、ポットは日陰に置きっ放しになっていた。
当然のごとく雑草に覆われ、たとえ芽が出ていたとしても確認できるはずもないほどであった。
正直に言うと、無理かも知れないという気持ちは確かにあり、数本でも発芽したらラッキーという程度の試みであった。

先日、そのポット群を(失敗を確認するため)片づけるべく作業を行った。
ひとつひとつを手に取って見ると、なんと枯れた雑草の茎に混じって実から芽を出したと思われる小枝が何本も出ているではないか。
雑草を取り除いてみてみるとほとんどのポットで確認できた。
おそらく山桜の実生苗で間違いないと思われる。
来年、葉の形をしっかり確認したい。
枯れた雑草を取り除いたポット
幼木の先端には葉芽がしっかり付いている
今少しこのままポットで養生し育て、来年に大きな鉢に移植したいと思う。

さて、ここまで来ると次はソメイヨシノ等の桜の接ぎ木に挑戦である。
桜の増殖・・・植林・・・玉川花見山・・・夢ではなさそうである。

2012年12月29日土曜日

鎮守 地殿神社略記

当地域の鎮守社は『地殿神社』という。
『じどのじんじゃ』と読む。
昔は地頭殿神社と言われていたのを徳川光圀が現名称に改称させたとのことだ。
全国でもたぶんここだけの名前の神社であろうと思う。YahooでもGoogleでもこの神社しか出てこない。
(岡山県御津郡の志呂神社境内にある天満宮の末社には『地殿神社』という額が『天満宮』という額とともに掛かっているようだが、神社そのものとして独立しているのはここだけだ。)
地殿神社
去年の大震災では社殿こそ大きな被害はなかったものの、境内の鐙籠が倒れ壊れた。
この程度の神社では鐙籠等の再設置はなかなか難しい。
後片づけといっても横にとりあえず置いておくだけでまだまだ生々しい姿だ。こんなところにも震災の傷跡は残る。

         

この鎮守も新年に向けての準備がなされている。
大鳥居のしめ縄も新しいようだ。

田舎の小さな神社であるので、正月期間中の参詣者といっても数は知れているが一円から人が集まる。
今尚この地域の人々の信仰の拠り所となってる大切な神社なのである。

         

ただ地元の人でもよほど関心がある人以外は、この神社の云われなり祭神なりを知らないのではないかと思う。
社殿左横の軒下に掲げられている額『地殿神社略記』にその説明があるものの、高所に掲示されていることに加え字が小さく、かつ文字が薄くなっていて判読不能の個所も多い。なにしろ70年以上前の昭和15年のもので風雨に晒されてきたものだから致し方あるまい。
地殿神社略記の額
以前にこの額を写真に収めておいた。
参考のために、時間はかかったが難解な文字列を解読してみた。
自分自身のメモとして残すためであると同時に、この神社に関する情報を得たい方のため(・・いるとは思わないが念のため。どんなにネットで調べても出てこないし、国会図書館で調べても探せない情報であることは間違いない。断言できる。)、この『地殿神社略記』をここに紹介しておきたい。
(あくまでコンパクトデジカメで撮ったものをPC上で拡大し解読を試み、読める範囲で文字に落としたものである。判読不能は■とした。また浅学ゆえの誤読・誤解釈もあるものと思う。お赦し戴くとしてそれを前提として参考にしていただきたい)


地殿神社略記

御鎮座地 茨城県那珂郡玉川村大字東野字坂上三十八番地
御創立 年代 平城天皇の御宇大同四年巳丑四月(紀元一四六九年)大和國大三輪より遷し奉る

御社號 地殿神社 初め地頭殿と稱せしが霊元天皇の御宇寛文三年十二月水戸藩主徳川光圀卿の藩政により一郷一社の制度を建てられし際 地殿と改稱す
御社格 古来東野の鎮守なりしが、明治六年 月 日 列格す
御祭神 大己貴命(*1)  相殿  素戔嗚命(*2)

大己貴命は 素戔嗚命の御子にましまし神代の昔出雲朝廷を御治めになり英邁なる神威は宏く國土を平定し隆■山間田畝を開拓し大に民治に御力を盡させ給ひり
天照大神は高天原朝廷に御坐して豊葦腹瑞穂國は世々天孫の天下を統べ給ふことに御定になり
使者を出雲に御遣わ■國土奉還を御慫慂(*3)になられた茲に命は深く大義名分を御考慮に遊ばされ國土を天孫に御奉還に決し御子孫と共に臣下の節を以て永久に奉仕を御契ひ申上げて帰順の赤誠を表し範を世に垂れ偉大なる御功績を萬世に傳へ給ひり
更に命は御英邁の反面御慈悲に富ませ給ひ世に医薬の祖神と仰がれ病に苦しむ多くの民草をば憫み給ひ是れを癒し或は竒しき神事により限りなき生物に至るまで御救ひ遊ばされた 其の宏大なる御恩澤に浴し感泣せざる者なかりき 福徳神は命を崇むる塑像にして世上に知られ一般の教慕殊に厚し
 相殿に坐します素戔嗚命は天照大神の御弟にましまして天性の御勇猛八俣大蛇を簸の川(*4)上に屠り給へ其の體尾より名劔天叢雲劔(後三種神器の一草薙の劔と称し奉る)を御發見遊ばされ此れを御姉天照大神に献上し奉りき命は出雲の清宮に坐しませる時
       御 歌(*5)

  八雲起つ  出雲八重垣 夫婦隠みに  八重垣造る  其の八重垣に

と三十一字を以て御感興を御表現遊ばされたのが是れ我国の和歌の初めとし古より傳きし最も有名■■出雲地方を御平定になられ又或時は海原遠く朝鮮に御進出遊ばれ益々御名聲を博し給しむ 御■■■■■■に専ら建国に御貢献あらせ給ひる英雄神にましませり
往古郷人等相謀り因の内外に燦然として光り輝く此(地?)■■■御神徳■■仰し奉り■■■■■定■御神殿を建営し産土神と稱して奉■■是れ即ち當社なり

御寶物

       神鏡            壱面    年代不詳
       扁額     壱面    文政七年九月 従一位関白太政大臣中山愛親卿御揮毫
       鈴      壱個    元禄十一年九月 當社神主  横山伊太夫 奉納

御境内の整備

  千古の充杉欅の大木等の中に永■■神鎮する境内には本殿拝殿の外多くの末社を配し鳥居石鐙籠或は繪馬堂などの建造物整備し又数百貫の重量を有す手水石は船形の自然の竒にして十部の凹みは水一斗内外を入るるに適す 文政二年四月村人が隣村山方より引取り奉納せるものなり

御境外 社有地面

  元禄年中社領除地畑五畝二十八歩 旧水戸藩主の寄進する処なりしが明治維新に際に上地となる間三十八年   年  日九反四畝三歩の社有田を設け神社の経営概ね此の収入を以て充当す

御祭祀の慣例
  創立以来春季御例祭には当社の西方凡そ二十丁を隔てしぬ額澤山の山頂に御腰掛けと稱する地方稀に見る巨大なる霊石に神幸し御神霊を休み奉り厳に祈念を行いて後初■に奉遷し三日間に亘る盛大な祭事を執行す この風習今尚傳へて存す

御神饌幣帛料供進
    明治四十三年三月八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる
神社の三大祭及び国家重要の事に際し臨時大祭わ行はせらるる場合に供進使御参向によりて是れを大前に奉る

御祭日
 一月一日   元旦祭

 二月十七日  祈年祭    供進使参向
 四月十五日  春季例大祭  供進使参向
 旧九月二十九日  秋季旧例祭
 十一月二十三日 新嘗祭    供進使参向
其他月次祭毎月一日興亜奉公日旧例による麦を参上、天祭御旗上、二百十日嵐除、献燈等
昭和十五年庚辰十一月十日
紀元二千六百年記念奉額
                                                                           地殿神社


                  
*1 大己貴命(おほなむち) ・・・ 大国主命のこと
*2 素戔嗚命(すさのうのみこと)
*3 慫慂(しょうよう) ・・・・ 示唆すること
*4 簸の川(ひのかわ)・・・・ ヤマタノオロチが棲んでいたという川
*5 八雲起つ  出雲八重垣 夫婦隠みに八重垣造る  其の八重垣に
              古事記にある日本最古の和歌と言われるもの
       (大意) 雲が何重にも立ちのぼり、雲が湧き出るという名の出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼる。妻を籠らすために、俺は宮殿に何重もの垣を作ったけど、ちょうどその八重垣を巡らしたようになあ

2012年12月27日木曜日

Christmas present for bees

久しぶりにミツバチの巣箱の中をのぞいてみた。
寒い時期のミツバチは活動量も少なく、巣箱を出入りしている姿はほとんど見かけない。

覗いてみるとやはり少ない。
夏の頃には巣箱の中で真っ黒の塊になっていたが、巣の本体が見える程に蜂の数が減っている。
花もほとんどない時期であるので彼らにとっては忍耐の時期だ。
越冬する少数の彼らが必死に固まって耐えている様はちょっした感動ものでさえある。
垂れ下がっている巣の本体が確認できる。
蜂の数は最盛期の1/4程度かもしれない
(参考)今年8月に撮影したもの。
巣の姿は確認できない程に蜂が群がっている
花がないということは花粉も蜜も集められないということ。
つまりは日々の食料・餌もままならないといえる。
今まで貯めた蜜を僅かずつ消費しながら春まで生きながらえるはずだ。
ということで、遅ればせながらのクリスマスプレゼントの意味を込めて、彼らにハチミツの水溶液をプレゼントした。

といっても、このハチミツ自体彼らの巣から9月に強奪してきたものなので正確な意味では一部返還というのが正しい。
いずれにしても、巣箱の中に皿を入れてみた。
蜂が溺れないようごく浅い水深になるように気を遣ったのだが・・
蜂も喜んでくれるに違いない。
餌の一助となれば嬉しい。
(☝『奪っておいて何を言うか』と蜂の声が聞こえそうだ。全くもって人間は身勝手で傲慢な存在であることだなあ、とつくづく思う)。

2012年12月24日月曜日

クリスマス寒波とイルミネーション

世の中、いわゆるクリスマスである。
宗教的な意味合いは全くと言っていいほど影が薄く、商業主義にうまく乗せられた一大お祭り騒ぎと化している。

特に今年からであろう、都心部の人が集まる場所、たとえば東京駅舎やTBS本社ビルなどでは『プロジェクションマッピング』とやらで派手に建物をライトアップして、クリスマスから年末・正月にかけての賑やかさを盛り上げるのに一役かっている。
(これはこれですごい技術であり感心してしまう)
なんでもかんでも商業的価値でものを考えると、このような演出まで行き着くのだろう。

だが一方で、わが町を含む大半の田舎では主要道路といえども道路脇の街灯には『節電のため消灯しています』との張り紙が貼られ、数本置きにしか点灯していないまさに暗い現状がある。
こんな節電をしたところで効果は知れたものだろうと思うのだが、都市部の煌煌と明るさを競っている派手なイルミネーションを(TVで)見ているとなにか複雑な気持ちになる。街自体が明る過ぎてはいまいか。
原発がほとんど止まっている日本は、電気供給が今なお先行き不安なのではなかったのか?

         

このような田舎でも若い家族の住む家であろう、2階のベランダや庭・塀にサンタやらトナカイやらの姿を表したライトが掛けられ、点滅しているお宅がある。
(画像は暗くて映りが悪いので省略)
周りは家もまばらで僅かな家並みの明かりだけしか見えない暗闇のなかで、ポツンとそこだけ点滅する光。
車の通行量とてたかが知れている場所だ。
いったいどれだけの人が見てくれるんだよ、こんなところ・・・と思うのだが、他人に見せるためのものというよりも、子供を喜ばすと同時に自分たちが楽しんでいるようだ。
この程度のイルミネーションはほほえましい限りだ。
でもちょっと恥ずかくないのだろうかと余計な心配もする。

         

全国的にこれから寒さが厳しくなるという。
クリスマス寒波だ。

雪の深い東北の日本海側や北陸地方ではさぞや大変だろうと思う。
江戸時代初め、雪の降らない常陸の国から豪雪の出羽の国・秋田に国替えになった佐竹公は、初めて経験する豪雪・厳寒の冬に想像を絶する苦汁の日々を送ったという。
雪や寒さになんらの知識も持ち合わせなかった一族である。さもありなんだ。

この冬もまた雪おろしができない限界集落のニュースやら、雪おろし作業での転落事故のニュースがなされるのであろう。
雪が降らない場所に住んでいるとこのようなニュースも、残念ながら全く他人事でしかないのが正直なところだ。

東日本大震災や原発事故の被災地のことを想う気持ちも同じではないかな。
政治・行政の停滞も原因だが、一般の人の思いが軽くなっている気がする。
避難し、いまなお不自由な生活を余儀なくされている方々も、何の不安もなくイルミネーションを眺める都市部の人と同じく、生きているのである。
ココロがあるのである。正月を迎えるのである。

同じ(不自由な)生活をせよとは言えない。
われわれに出来ることは、思い続けること、共にあることを意識して風化させないことぐらいかもしれない、きっと。

2012年12月22日土曜日

石炭袋撤去

11月23日のSL試運転からはや一ヶ月。
あの熱狂が遠い昔のことのように感じられる。

先週、ホームに隣接して設置されていた仮設通路が静かに撤去された。
昨日(12/21)・今日(12/22)の早朝には、最後まで構内に残っていた石炭袋がトラックに積まれ、撤去された。
土日に定例運行している真岡鐵道のSL用に持ってゆくとのことだ(作業員談)。
これでSL関連モノは全て撤去されて無くなり、もとの何もない静かな風景に戻った。
玉川村駅も1年が静かに終わろうとしている。
誰もいない構内で静かに石炭を積み込む作業員
熱気に包まれたホーム・鉄橋には誰もいない

2012年12月17日月曜日

雑木林を切り開く

最低気温が氷点下になる日が増えた。さすがに師走である。
いまの寒い時期は山仕事が熱い。

まず、来年春先に菌を植え付けるシイタケ原木の伐採を始めている。
とりあえず木を切り倒すだけ倒し、2ヶ月ほど山中でそのままの姿で横たわらせて乾燥させる。
原木サイズ(1m)に切り揃える玉切り作業は来年2月になってからだ。
菌の植え込みはその後となる。

         

同時に雑木林の手入れを行っている。
篠や雑木が繁茂して容易に人を寄せ付けなくなっている山の斜面を、バダバタと切り開いてゆく作業。
倒した雑木を山の麓まで引きづり下ろす作業。
その後、麓でこの雑木を次々と燃やし、処分してゆく作業。
結構な作業量となり肉体的には少々キツイのだが、精神的には楽しくて仕方が無い。

雑木林を切り開くというのは、どちらかというと開墾作業に近い。
作業も3年回めの冬を迎え、かなりの面積がすっきりとした状態となった。
以前は密な雑木林(写真左奥はまだ手付かずだ)だったが
今冬の作業でかなり疎になった(写真右側)
この状態まで来ると以前との違いが一目瞭然で、達成感は大きい。

         

山の作業の楽しさ(愉しさ)は次のようなものだろうか。
1.作業の成果がすぐに目に見える形で実現する。やればやっただけ山がキレイになるので嬉しい。
2.作業は全身を使う激しい運動であり、体力増強・肥満予防にこれほど適した作業はない。
体全体が引き締まるのは間違いない。
3.大木が倒れる時の爽快感は最高。ストレスが吹っ飛ぶ、タマラナイ瞬間だ。普段の生活ではなかなか味わえない醍醐味がある。

         

上の写真中央奥の山頂付近には、東京電力送電線の鉄塔が建っている。
この鉄塔下と周辺は樹木が伐採されてスッキリしている。
そのエリア周辺の整備を先行をさせ、この山をキレイにするつもりだ。

一部作業を先行させたパイロット部分に、かねてからの念願だった桜の木を植えた。
(この寒い時期に桜の木を移植するのが適当であるとは思わないのだが、苗木が成長してしまい仮植えしている場所が混み入り過ぎたので作業を急いだのである)

この山全体を桜の山にする遠大な計画の大切な一本の植樹である。
植樹した陽光桜
今年の春も花が咲いた桜の樹だ。来年もこの新しい場所で咲いてくれるに違いない。
どんどん雑木林を片付けて、この山頂付近に第2号、3号と続けて植樹する予定だ。

この山が福島県福島市にある『花見山公園』のように、早くなってくれたらいい。
一般の人には、まだいまの状態ではその姿は何も見えないかもしれないが、ワタシには既に満開の桜の山の姿が頭の中に広がっている。

作業は大変でもこのようなな夢があると継続できるし、決して辛くはないから不思議だ。
壮大なライフワークを持てて、つくづく幸せだと思っている。