2018年8月29日水曜日

2018 稲刈り始まる

今年の夏は局所的な豪雨が頻発している。一昨日の夜間もそうだ。警報も発令された。
その際の雷雨と強風で、刈り取りまであと少しという稲がなぎ倒されてしまった。
倒された稲は機械での刈り取りが難しいので、すこしずつ手で刈り取りを始めた。

倒れたままだと稲穂が発芽しかねないし、茎部分の藁も劣化が進んでしまう。

手で刈り取り、ひと束ずつ藁で縛るのだが、稲刈機による作業効率に較べると30分の1、いやもっとだろうか、50分の1くらい非効率だ。投下する人的な労働力も同様だ。そのくらい稲が倒れたり田んぼがぬかるんでいたりしなければ、稲刈り作業は効率的に進められる。
稲刈り前1週間と稲刈り期間中の気象状況にえらく左右されるので、この期間は気が気でない。
今年の台風は発生数が多いようだが、台風とゲリラ的な突風を伴う雷雨はこれ以上起こらないでほしい(加えて、イノシシも来ないでほしい)と、土地とともに生きる私たちは素直な気持ちで祈る。

相手が自然なのだから、本来はそれに合わせて生活のリズムを作り、唯々諾々と従うのが正しい姿だと思う。自然を克服しようなどと考える(いわば欧米の自然は征服可能とする考え方)は不遜ではなかろうか。無力な人間は自然現象に対してはただ平穏無事でありますようにと祈るだけである。一見無気力な無抵抗主義のようだが、明らかに違う。対立するのではなく共存するのである。
いくら耐震・免震のビルを建てようが、立派な治水ダムを作ろうが、長い堤防を築こうが、防波堤を作ろうが、それで防げない自然の威力は確かに存在するのである。
あの東日本大震災以降も、酷いツメ跡をたくさん目にしてきたはずだ。南海トラフも近いと言われているが、この地震が起こった後にはまた同じ反省繰り返されるのだろう。そしてまた数年で忘れてしまうのかもしれない。
自然とともにあるべし。これが日本の太古の昔からの精神文化だと思う。

明日の晴れを天に祈って・・・などと言ってはみているが、今宵も350mlの発泡酒でほろ酔い気分。すでに気分はアレコレ気を揉んでても「しゃーんめぇ」だ。
・・・だいぶ回ってきたようだ。

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