2016年8月17日水曜日

今の努力の将来価値

先日、東京・九品仏のケーキ屋さんを訪問する際に、約束の時間までに少しあったので、すぐ近くの『浄真寺』を参拝した。九品仏の地名の謂れとなっている寺だ。浄土宗の大きな寺で、広い境内はよく手入れされている。静かな林の中にある阿弥陀堂3棟にはそれぞれ3体ずつ、計9体の阿弥陀如来像が安置されている。お姿はみな金色に眩しく輝いている。
境内には本堂とは別に、立派なお堂が三つ並んでいる。
上品のお堂に三体、中品に三体、下品に三体 で九品仏となる。
金色が眩しい(螺髪部分だけは鮮やかな青色)如来様である。
山門前に掲げられていた今月の『お言葉』が気に入ったので撮影。

そうなのである。
努力したからって必ず報われるとは限らないのである。しかし報われた人というのは、まちがいなくとんでもなく努力しているのである。みつばちを捕獲するのだって、巣箱を並べれる努力をすれば全てOKというほど甘くはない。その中でも運よく捕獲できたのは実らなかった大半の空振りの『努力』があったから。努力は成功の必要条件だが、十分条件ではない。
この夏は、リオのオリンピックが連日報道されている。出場している選手たちは常人が想像もつかないほどの努力をしているひとたちばかりだろう。だから出場できているわけだが、結果は皆が金色のメダルを取れるひとばかりではない。スポーツ大会は努力してもダメ(=負け)の場合のがほとんどだ。
ただ、平凡な市井の人間としてはオリンピックは出られただけでも十分に報われているのではとは思うが。

最近、同じようなことをある高校野球の関係者(指導者)から伺った。常総学院が初戦で快勝したことの話題から、この努力の話になった。
つまり、高校野球では『甲子園に出場する』ということがまさにこの言葉通りのこと(=ひとつの目標であり、報われたということ)であるのだが、教育の観点からはこれに加えて、(前途洋々たる若い高校生に対して、オトナの)実社会ではむしろ報われない・評価されないことの方が多いこと、だからといって腐ってしまったり、今後の努力を放棄をするという選択はあってはならないこと、を理解させる指導も大切だと。加えて、今の若い子らに現在の努力の将来価値を理解させることは難しいとも。言うは易し行うは難し。指導者とは大変だなあとつくづく感心した次第。

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