2012年3月27日火曜日

風評被害と『絆』

福島第一原発事故から1年以上が経過した。
放射性物質による農作物への汚染への懸念が人々の念頭から離れないでいる。

それぞれの作物について放射線量検査体制はかなりのレベルで整備され、かつ放射線量が高い作物は流通に乗らないような仕組みも十分にできているが、である。
目に見えぬ『放射線』に対する恐怖はわからぬではない。
が、どこまで行っても信じられぬという不幸な心配禍に陥っているのではないかと思う。
東北各地の瓦礫処理が進まぬのもまた然りである。
なので大手Y新聞の時事川柳に、『おお絆、お前は瓦礫に弱いんだ』などど詠まれる始末だ。

         

福島県に限らず、広く東北各地、関東北部の産物までがあらぬ風評被害にあえいでいる。
昨日のテレビでは、東京・高円寺の商店街主催のイベントでは福島から避難している方たちを招き、福島産食材をアピールしていた映像を見た
(あわせて一緒に阿波踊りを踊っている姿も)。

参加した東京の人たちは福島産の食材でできたものを食べながら『おいしい』と言う。
そして『ぜひ(これからも購入して)支援したい』とも。
みな嘘ではないのだろう。
全国各地でこうしたスポット的努力が続けられてはいるが、なかなかいったん染み付いた不安を払しょくするのは難しい。
今日このイベントに参加し『おいしい』と話していた東京の若いご夫婦も、明日にはスーパーで並んだ福島産の野菜に手を伸ばすかどうかは疑わしい。

         

悲しいかな、われわれは大量の放射性物質がばらまかれてしまった現実は直視して受け止めなければならない。
被爆の健康への影響を無視するわけではないが、『自己中心的な恐怖感』で必要以上に後ろ向きになってよいのかという思いも強い。
もちろんのことであるが、妊婦や乳幼児、子供などは守られなければならない。
しかし、われわれ成人、とくに高齢者は福島の人たちと同じものを食べるということで、(原子力発電で生み出された電気の上に成り立った)文明社会を享受してきた世代の人間として、ともに責任をとるべき、思っている。

われわれはごく当たり前に福島原発産の『電気』を消費し続けてきた。
まぎれもない事実だ。
電気がどこでどのようにして生産されているのかなどはまったく念頭になかったのではないか。
それはそれで仕方ない。
ただ、このような事態になった以上、これからは違う。
であるから、いまこの日本が置かれている状況を理解しながら、自分の生き方を変える・社会の在り方を見つめる、それらをせずに安全なものだけを求めるというのは、いくら高いお金を払ったとしてもエゴイズムである、と思う。
いままでふんだんにこの原発電気を消費し、便利で快適な生活を享受しておきながら、いざ事故が起ってしまうとこの地域を差別するというのでは、あれだけ騒いだ『絆』なる言葉がなんとも陳腐に聞こえてしまう。
単に福島の方々だけに、このあまりにも過酷な現実を押しつけてはいけない。

         

おそらく、福島県内の小売店では福島産の農産物を多く販売しているのだろうと思う。
当然ながら、福島の子供たちはそれらを食べて生活しているはずだ。
他地域でも同じようにすべきとは思わないが、原発事故近くの子供たちがそのような状況に置かれていることを知っていながら、自分はそれを逃れられるというのは利己主義ではないのか。
ともに心を痛め行動を起こすということが、真の意味での『絆』ではないのかな。

福島近くの茨城の田舎にいて、農に関わりを持つ身として、そう思う。
毎日が妙に歯がゆい。
一時間に一本ほどしか列車が来ないJR水郡線玉川村駅構内。
その時以外は周囲も静かな里山風景だ。
この穏やかな風景も放射生物質の影響からは逃れられない

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