2021年2月24日水曜日

杉丸太丸洞巣箱 お分けしてます

 杉丸太をくり抜いて作った「丸洞巣箱」。昨年、何件もの問い合わせ・購入希望があったため、手元の在庫を確保すべく昨年秋から杉丸太を加工して作り置きしておいた。屋外に長期間置いて十分に乾燥させ太陽光に晒してある。今日は内部にニホンミツバチの蜜蝋をたっぷり垂らし、重箱型巣箱を上部に乗せられるようにコンパネ板をセットして完成させた。

設置する完成形
下部の黒ずんだ部分が巣門でここにも蜜蝋が塗ってある

今年も購入希望者からの引き合いが続き、残り在庫4個となった。


太さは外径30cmほど 高さは35cm
早い地域では来月中旬あたりから分蜂が始まるので、ミツバチ愛好家はシーズンの前に抜かりなく準備を進めているようだ。日本各地にこの手製の丸洞が設置されていると思うと感慨深い。

手元に残っているこれらの丸洞巣箱も自宅周辺に暫定的に設置する予定だ。引き合いがあれば取り外して「Used Box」としてお送りすることになる。ことミツバチ巣箱に関しては真新しいものより使用済み(できたら入居実績)であった方が好まれるためだ。

あたかも自然樹の洞を再現した形の丸洞巣箱は、四角四面の人工的な板造り巣箱より「ミツバチが好みそう」なものだとは思う。これを野山に設置して入居を待つのだが、さて今年はどんなドラマ展開になるのだろう。ワクワクしながらの作業だ。

2021年2月21日日曜日

2021年 くるみ&百花蜜

昨年我が家で採れたニホンミツバチのはちみつ(百花蜜)とくるみ(カシクルミ)を素材としたハニーナッツ「くるみ&百花蜜」が出来上がった。濃厚なはちみつにローストされたクルミをぎっしり詰めた贅沢なはちみつ漬けである。
毎年売り切れ御免の人気商品
ミツバチの逃去が異常に多くてはちみつが予定量を十分に確保できなかったことと、くるみも(殻を割って初めてわかるのだが)使い物にならないものが例年以上に多かったため、製品は数量限定品になってしまった。 いずれも昨年の7月末までの長雨と梅雨明け後の酷暑の日々という夏の気象のせいなのだろうと思っている。
 
毎年ご注文を頂いているリピターさんから、昨年夏から「くるみ&百花蜜」の予約を多数頂いていていたこともあり、これらの方による予約分だけで完売となってしまった。 有り難いことだが皆様の熱い期待に応えられずとても申し訳なく思う。
とにかく、いずれも自然相手で生産量が一定しないのが難点でどうにももどかしい。またそれだからこそ工夫のし甲斐もあり楽しいと言えるのだが。
 今年も間もなくミツバチシーズンが始まる。 新たな決意のもと、準備は着々と進んでいる。

2021年2月19日金曜日

クレゾール

 この辺りでの一番の獣被害はイノシシによるもので、県北中山間地域はほぼ同様だろうと思う。イノシシの被害は収穫対象の農作物被害にとどまらない。決して誇張ではなく地形まで変えてしまうほどの破壊力でもって田畑をところかまわずほじくりまわす。主たる積極的な対策としては狩猟(ハンティング)による退治、箱罠(鉄製の檻)を設置したりくくり罠(ワイヤーロープで足首を締め上げる罠)を仕掛け捕獲する、という方法があるが、これらは狩猟免許や罠設置の免許が必要で誰もが勝手にできるわけではない。したがっておのずとヤツラを近づけない消極的防御策をとることになる。要は柵を廻らせるのである。

昨年春に、頑丈なワイヤーメッシュの柵を田んぼと畑に廻らせたお陰でこの一年、その田畑だけはイノシシの侵入被害は皆無。効果は十分といえる。ではあるがそれ以外の場所は相変わらずボコボコにされている。とくに深刻なのは田んぼの畔を一晩で崩されることだ。大変な労力で泥さらいをして土を盛った畔が、完膚亡きまでゴチャゴチャにされているのを見つけたときの脱力感・徒労感・強烈な怒りは、涙が出るほどだ。手をこまねいていてはヤツラの勝手気ままな行動を黙認することになる。敗北したようなもので悔しい。

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今年は新たな策を試している。「もしかしたら・・・」だが、この半月の試行結果を見ると、(効果は短期間の限定的かもしれないが)事態は改善傾向にあると感じている。

内容は至って簡単な方法である。

「クレゾール」の希釈液(今回は33倍の希釈液)を、イノシシが闊歩する通り道ポイントポイントに散布したり穴を開けたペットボトルに入れてぶら下げておく方法で、ネットで紹介されていたものだ。

希釈液といえどもかなり強い臭いでいつまでも残る

柵の中には入らないが周囲を徘徊して畔を壊されているので
いつも被害が大きい田んぼの畔に設置した

「クレゾール」は、ある年代以上の方たちにとっては鼻孔の奥の記憶に刻まれている独特の嫌な臭い、でも懐かしい臭いの消毒薬だろう。昔の小学校の保健室の洗面器に入っていた消毒液体であり、トイレの消毒薬だったりしたものだ。

今月初めに、いままで度々被害にあってきた主要ポイントに設置してみた。依然として付近には出没している形跡はあるが、この臭いの漂う箇所付近には近寄っていないようだ。とはいえまだまだ油断できないが。

元来人間が手指・皮膚を浸す消毒薬である。人体に悪影響があるような農薬や化学薬品ではなく安心できるものだ。加えてモノ自体は廉価だし、取り扱いに特別な知識が不要だし、この「臭い」は長期間持続するし、で結構優れているのではないだろうか。

まだ半月しか経過していないので結論を出すのは早計。いましばらく経過観察を続けるつもりだ。愚痴をこぼし悩むだけで何もしないでいるより、ダメもとでやってみる。ヤツラとの知恵比べ。こんなことも田舎生活の知的愉しみ方である。

2021年2月14日日曜日

谷津田の苦悩

 稲刈りが終わった後の田んぼは一度トラクターで土を耕起する。これをやっておくと田植え前の代掻きが容易になる。

もっと早くに一度耕しておきたかったのだが、この谷津田はだけはなかなか土が乾かず結局今となってしまった。

だが、やはりというか心配していたとおり、深いぬかるみにトラクターがはまってしまい身動きが取れなくなった。

大きな後輪タイヤが半分以上埋まりもはや進退窮まってお手上げ状態。表面は乾いているように見えてもちょっと下はベタベタの強い粘質の土の田んぼだ。十分に気を付けながら動かしていても時にこうなる。

まったくもう、これだから谷津田は要注意だ。

結局、自力脱出が不可能なため、ユンボを繰りだしての大騒ぎの脱出となった。

このように深いぬかるみに機械がハマるリスクはあるし、水の管理の難しさはあるし、イノシシによる被害もある。

谷津田はとにかく耕作するにあたって負担が大きい。耕地整理がなされた広くて四角い田んぼ、栓をひねれば農業用水が出て必要な時に必要な量が確保できる田んぼ、に比べればどんなにか条件が悪いことか。

でもここで稲作を続ける意味・意義は十分にあると信じている。

第一に先祖が代々守ってきた田んぼである。ご先祖の念がこもっている。こうやって身体が動くうちは疎かにしてはいけないと思う。加えて一切生活雑水が流入することが無い完全天水の清浄な環境の田んぼである。化学肥料も農薬も最低限しか使わない農法で米を作っている。安心して食べられるこだわり米を作り、自ら食せるのは至上の贅沢だ。

・・という気持ちもあるのだが、稲作の経済的な合理性は既に無いので、農作業で身体を動かし健康になる・野外作業は気分が良い、などの趣味のレベルでの農作業と位置付けている。確かに大変さはあるもののそれを上回る充実感を得られるので続けられている。

還暦を過ぎても身体を使って一年を通して働き、その合間にはいろいろな趣味を楽しめる。充実した田舎の生活である。定年退職後に何もすることが無いとぼやく御仁もいると聞くが、まったく遠い世界の話だ。

2021年2月10日水曜日

Moist Potpourri

 真冬のロウバイ(蝋梅)の芳しい香りが気に入っている。

花としての派手さはないのだが独特の香りがその存在感を感じさせてくれる。香りの範囲もあまり広範囲に漂うものでは決してなく、花に近づいてやっと分かる程度。しかも、花は小さく枝にポッポツと粗に付く。加えて色は薄い黄色であるときているため木肌の色に近く、遠目に花の存在はほとんど分からない。斯様に見た目の自己主張がほぼ無いのがまた良いのだ。9月の金木犀の艶やかなオレンジ色の見た目と広範囲に漂わせる香り、というかなり主張が強い花とは好対照である。

この香りも、他の花と同じように枝を手折って花瓶に挿して飾ると家の中でも楽しめる。だが残念ながら時間の経過とともに植物は萎れ香りも減衰してくる。生の植物を飾る限界であり、儚い故の刹那的な愉しみといえるだろう。

だが、これらの好ましい花の香りを出来るだけ長い期間にわたり愉む方法がある。「Moist Potpourri」(モイスト ポプリ)だ。理屈は簡単で、摘んできた花を少し干して乾かし(半生=モイスト)、塩とともに瓶詰めするだけだ。

さっそく作ってみた。乾かし過ぎると花びらやガクがパリパリになり粉々になってしまうので、「半生」というのがポイントだ。

2時間ほど天日干ししただけだが、香りはだいぶ強く感じられるようになる。塩→花びら→塩→花びら・・・と交互に詰め込んで行く。最後に花びらを最上部に敷き詰めて終わり。



これで香りの瓶詰となる。香りを楽しみたい時は蓋をそっと開けるだけでよい。目を閉じて香りを嗅げば、きっとロウバイの花とともに真っ青な冬の空や冷たい北風も思い出せるに違いない。人の脳に刻まれた香りというのは、それに関連付けられた事象の記憶をふとした瞬間に鮮やかに甦らせるものだ。

(まだ試作品で工夫の余地はあるが)小さく可愛らしいし、何より珍しいし、しかも相手に負担を感じさせる・気を遣わせるような高価なシロモノでも無い。プレゼントにしても喜ばれるかもしれない。・・・知り合いのご婦人たちにモニター依頼して評価してもらうとするか  WW

2021年1月23日土曜日

梅は百花の先がけ 水戸は天下のさきがけ 嗚呼、水戸志士

 早咲きの梅が花を付け始めた。毎朝のように霜が降りるし、池の氷は一日中溶けないような寒い日が続いているのだが、すこしずつ確実に春は近づいているようだ。これでミツバチたちも活動が活発になる。


梅下の巣箱は未入居状態だ

その昔、水戸藩の二代目藩主だった徳川光圀(義公)、いわゆる水戸の黄門様は梅の花をことのほか好んで愛でたという。その後の九代藩主斉昭公(烈公)も同様で、偕楽園を作ったり、藩内に梅の植樹を奨励したりしている。

その斉昭の言葉とされる「梅は百花のさきがけ。水戸は天下のさきがけたらん」は、まさに水戸藩が幕末の日本国内の思想界をリードしつつあった時のもの。

幕末の水戸藩は尊王攘夷の騒乱時に藩内外での思想対立(いわゆる天狗党の乱)で優秀な人材を多数失った。その後は薩長土肥に新たな国造りの主導的位置を譲ったが、この残念な対立・人材の消耗さえなければ水戸藩は当時のイデオロギーのカリスマであった斉昭を中心として後の日本のカタチを作っていったはずだ。明治維新も水戸藩メンバーを中心として進められただろう。たらればであるが、総理大臣も輩出していたに違いない。

藩主斉昭のリーダーシップもさることながら、水戸藩内には新しい時代を切り拓いて行こうとする志に燃え、気高く崇高な精神にあふれたインテリジェントな若者(士族に限らず百姓平民もである)たちが実にたくさんいたのである。在野の百姓の倅であっても尊王攘夷・開国・・・かかる国難に対してじっとしていられず馳せ参じたのだろう。結果的には何とも悲しく悲惨な結末であったが、その高邁な精神は今も我々の誇りである。

常陸大宮市東野地区からも参加者がいて、内2人が亡くなっていることが記録から確認できる。ひとりは東野村の鎮守社である地殿神社の禰宜。もうひとりが我家の本家にあたる家の当時の当主で、名を謙蔵敏行という。彼は他のメンバーとともに捕まって関宿藩(現在の千葉県野田市関宿)久世家に預けられそこで獄死している。彼の名は水戸の回天神社内の水戸殉難志士の墓にも刻まれている。無論常陸大宮市の我が一族の墓地にも墓碑はあるのだが、恐らくは実際には埋葬されてはいまい。没した千葉県野田の地から遠く離れた県北のこの地まで、遺体なり遺骨を運んでこられるような時代背景・世情・立場では無い。本人はもとより残された家族もさぞ無念だったろう。特に妻女(まりさんと言う)は大正時代まで存命だった。

関宿の街のどこに葬られているのかの手掛かりもないのが悲しい。いま街外れの寂しい場所に処刑場跡地の碑があるだけだ。

2020年7月 手かがりを求めて関宿を訪ねてみた

水戸は天下のさきがけ・・桜のような華やかさこそ無いが、まだまだ凍てつく日の冷たい空気の中で、他の花々に先駆けて咲く梅。斉昭は凛としたその姿に水戸藩の気概、心意気を投影したのであろう。毎年この時季の早咲き梅を見るたびにこのようなことを思い出している。

梅は花を愛でる以外にも、実は保存がきく食材であるしで実用的ということもたぶんにあるね、きっと。水戸藩ってとてもとっても貧乏だったから。嗚呼。

2021年1月14日木曜日

コケの魅力

「苔」にはまっている。 
山や日陰など至る所に自生しているあの緑色の「苔」である。
昨年、苔テラリウムを紹介する本を見て、少しちゃんとした知識を得てからというもの、我が家の山に生えている苔の種類と量の多さに改めて驚いた。
しみじみ(*註1)辺りを見るとあるわあるわ。

  (*註1)しみじみ・・・代表的的茨城弁で、しっかりととかちゃんとなどの意
この杉の大木は根元付近が苔で埋まっている
このような大樹がたくさんある

百均でガラス容器と園芸用砂を買い揃えた。
こうやって器に入れてみるととてもさっきまで杉の大木の根元に生えていたものとは思えない。オシャレなインテリアに大変身である。


個人的にはオキナゴケとスギゴケが一番美しくて映えるので気に入っている。

オキナゴケ
基本的に世話の必要がほとんどない。たまに水を吹きかけるだけでいいときている。
小盆栽を植えた苔玉と合わせて、ラインナップがだいぶ揃ってきた。全てプレゼント用だ。
先日、知り合いの看護師さんが勤める職場(訪問看護ステーションの事務所)に瓶詰め苔と苔玉小盆栽を差し上げたところ、珍しいこともあるだろうが、日々皆さんの目を楽しませていると聞く。お世辞もあるだろうが評判はなかなか良いようだ。

苔を飾るなどと言うとこのあたりの人などは「なんだそれ、いぎもねぇ(*註2)」などと軽蔑気味に言うに違いない。だが苔といえどもかように立派な鑑賞用アイテムとなり、眺める人に憩いと心の潤いを与えてくれるものになるのである。

田舎には少し手を加え工夫すると輝きを増す宝物がたくさん眠っている。
どうやら目に入って見えていても気が付かないだけのようだ。

    (*註2)いぎもねぇ・・無駄なことだ、意味のないことだ、の意
          このとき「ぎ」は非鼻濁音である
          恐らくは「いぎ」=「益」で「益も無い」の転訛と思う