2021年1月23日土曜日

梅は百花の先がけ 水戸は天下のさきがけ 嗚呼、水戸志士

 早咲きの梅が花を付け始めた。毎朝のように霜が降りるし、池の氷は一日中溶けないような寒い日が続いているのだが、すこしずつ確実に春は近づいているようだ。これでミツバチたちも活動が活発になる。


梅下の巣箱は未入居状態だ

その昔、水戸藩の二代目藩主だった徳川光圀(義公)、いわゆる水戸の黄門様は梅の花をことのほか好んで愛でたという。その後の九代藩主斉昭公(烈公)も同様で、偕楽園を作ったり、藩内に梅の植樹を奨励したりしている。

その斉昭の言葉とされる「梅は百花のさきがけ。水戸は天下のさきがけたらん」は、まさに水戸藩が幕末の日本国内の思想界をリードしつつあった時のもの。

幕末の水戸藩は尊王攘夷の騒乱時に藩内外での思想対立(いわゆる天狗党の乱)で優秀な人材を多数失った。その後は薩長土肥に新たな国造りの主導的位置を譲ったが、この残念な対立・人材の消耗さえなければ水戸藩は当時のイデオロギーのカリスマであった斉昭を中心として後の日本のカタチを作っていったはずだ。明治維新も水戸藩メンバーを中心として進められただろう。たらればであるが、総理大臣も輩出していたに違いない。

藩主斉昭のリーダーシップもさることながら、水戸藩内には新しい時代を切り拓いて行こうとする志に燃え、気高く崇高な精神にあふれたインテリジェントな若者(士族に限らず百姓平民もである)たちが実にたくさんいたのである。在野の百姓の倅であっても尊王攘夷・開国・・・かかる国難に対してじっとしていられず馳せ参じたのだろう。結果的には何とも悲しく悲惨な結末であったが、その高邁な精神は今も我々の誇りである。

常陸大宮市東野地区からも参加者がいて、内2人が亡くなっていることが記録から確認できる。ひとりは東野村の鎮守社である地殿神社の禰宜。もうひとりが我家の本家にあたる家の当時の当主で、名を謙蔵敏行という。彼は他のメンバーとともに捕まって関宿藩(現在の千葉県野田市関宿)久世家に預けられそこで獄死している。彼の名は水戸の回天神社内の水戸殉難志士の墓にも刻まれている。無論常陸大宮市の我が一族の墓地にも墓碑はあるのだが、恐らくは実際には埋葬されてはいまい。没した千葉県野田の地から遠く離れた県北のこの地まで、遺体なり遺骨を運んでこられるような時代背景・世情・立場では無い。本人はもとより残された家族もさぞ無念だったろう。特に妻女(まりさんと言う)は大正時代まで存命だった。

関宿の街のどこに葬られているのかの手掛かりもないのが悲しい。いま街外れの寂しい場所に処刑場跡地の碑があるだけだ。

2020年7月 手かがりを求めて関宿を訪ねてみた

水戸は天下のさきがけ・・桜のような華やかさこそ無いが、まだまだ凍てつく日の冷たい空気の中で、他の花々に先駆けて咲く梅。斉昭は凛としたその姿に水戸藩の気概、心意気を投影したのであろう。毎年この時季の早咲き梅を見るたびにこのようなことを思い出している。

梅は花を愛でる以外にも、実は保存がきく食材であるしで実用的ということもたぶんにあるね、きっと。水戸藩ってとてもとっても貧乏だったから。嗚呼。

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