2013年9月15日日曜日

台風接近の報で農家は

台風18号が北上しており日〜月曜あたりにも関東接近、との予報が出た。
連休中に稲の刈取りを予定していた多くの農家は、急遽予定を早めた。
昨日(9/14)は、多くの田んぼでコンバインやバインダーのエンジン音が響いた。

         

とはいうものの、当地では9月1〜5日と8日にまとまって雨が降ったため、まだまだ田んぼはぬかるんでいる場所も多い。水が溜まっている場所さえある。
田んぼのコンディションを無視して機械を入れても、思い通りに進まないことも多い。

我が家はバインダーで刈り、オダ掛けしているので、ぬかる場所は手刈りもしくは刈取りを後回しにしている。
無理に押し進めると、折角の稲が踏みつけられて台無しになったり、バインダーが泥にハマって要らぬ労力を費やすことになる。なので、田んぼの細かな状況をみながら、被害を最小限で回避している。手作業が多く大変な分、小回りが利く。
大型のコンバインを使う農家はそういう小回りがきかない。
とりあえずコンバインを田に入れて刈取りはじめたものの、途中で諦めたところもある。こうなると、高額なコンバインも立ち腐れである。

         

そして驚くべき光景も目にした。
近くの田んぼでは、ユンボ(パワーショベル)まで持ってきてぬかるんだ田んぼの倒れた稲を刈り取っていた
ユンボ(パワーショベル)
***これだけでは状況が分からないだろうから、若干の説明を加える。
稲刈バインダーをユンボのアームからたらしたヒモで吊り、泥にハマらぬようにして刈り進む。ユンボもバインダーと共に横に移動してゆく。稲が一方方向に倒れているので、一列を刈り終えるとバインダーをつり上げて刈り易いスタート位置まで戻して、また一方方向にユンボとともに移動して刈り進む。当然、田んぼはグチャグチャになる。ユンボの操作者・バインダーの操作者・刈り取った稲束を泥に浸からぬように受け取って運ぶ人、と最低でも3人が関わっている。油代もバカにならぬだろうから、人件費も含めるとエラく高くつく米だ。

ここまでするかぁぁ、と思わぬでもないが、当然何か考えが合っての事だろう。

         

我が家も途中までしか作業を進められずに日没終了となった。
この台風の雨や風で、田んぼとイネのコンディションは更に悪くなる。
全部の田を終了するまでまだ3割ほど刈取りが残っている。
後の事を考えると少々気が重たい。

疲れた身体を引きづりながら帰途についた。
薄暮の迫る田んぼの畦道を歩いてゆくと、何処からか仄かなキンモクセイの香りが。
鼻腔に香りが伝わったその瞬間に、我が空疎な脳みそで、幸せホルモン=セロトニンの分泌が突然増えた。なんとも秋である。

2013年9月14日土曜日

どぜう

どぜう=どぢやう=どじやう=ドジョウ

先日、稲刈りの田んぼで見つけたドゼウ=ドジョウである。
我が家の田んぼには、ドジョウがたくさんいる。いたるところ泥の水たまりでピチャピチャしている。
ドジョウは多いが、そんな中でもなんとも立派な容姿に出合った。
体長20センチはありそうだ。
これだけのサイズにはなかお目にかかれない。
いいよね、こんな出会い。
ドジョウにとってこの田んぼ、この環境は楽園なんだよ。

とかなんとか言いながら・・・。
笹掻きにしたゴボウを味醂と醤油の割下で煮て鶏卵で綴じて・・・などと頭に浮かんでしまい、口中にその想像した味が広がった。
だが、また田んぼの水たまりにそっと戻した。
逞しく生きろよ、もっと子孫を残せ、と念じつつ。
かれらの棲息数は、環境の健全度合いに比例すると信じて疑わないから。

2013年9月13日金曜日

NHKクローズアップ現代 『ミツバチと私たちの関係』(9/12放送)から

12日夜に放送されたNHK・グローズアップ現代から。
『ミツバチと私たちの関係』という題。

         

当たり前だが、受粉することで野菜や果物は実が付く。
その受粉に大きな役割を果たしているのがミツバチである。
逆に言えば、ミツバチの働きなくして野菜・果物は出来ないと言っても良い。

一方で、全世界的にミツバチが大量死したり失踪するといった問題が発生している。
その結果、人間が食べる食糧の生産高にも大きく影響を与えるであろうことは明白だ。
番組で大量のミツバチの死骸が写されていたが、原因はともかくミツバチを飼っている我が身としては大変心痛む切ない映像だった。
何も声を発せられない彼らである。
ミツバチの住み難い環境とは、人間にとってもいつかはその負の面が出てくる悪しき環境ではないだろうか。

番組では、ミツバチ異常に対する対応として、EUがとった農薬規制を解説している。
EUには予防原則というものがあって、徹底しているとのこと。
つまり『その時点で科学的根拠に乏しくても、放置しておいて被害が拡大してからではでは遅い』という考え方だ。
興味深いのは、科学万能主義の欧米では自然は征服するもの(できるもの)で、科学的解明がなされない・科学的根拠が薄いもの・証明されないものは、人間のご都合よろしく取り扱うものだと思っていたが、このように思考のベースに『人間にとっての幸福とは』という考え方があることだ。
日本では、経済的価値を優先するあまりあまりなじみがないがない考え方だ。
たぶんそんなことしたら、関係団体から突き上げを食らってしまいかねない。

         

今回その予防原則で使用が規制されたのは『ネオニコチノイド系農薬』である。
どうやら少量の使用で効果が持続する理想的な農薬らしい。
日本では、この農薬の禁止はせずに、違った形でのアプローチをしているようだ。養蜂家と農家(農薬を使いたい農家と受粉にミツバチを使いたい農家)のコミュニケーションによって、情報を共有する方策を取っているという。
まだ一部の試みではあろうが、利害が絡み合う立場のひとが互いに理解し、共存を図ろうとするのは良い事だ。

ただ、どんな理由があるにせよ、人間のご都合主義で農薬を使い、見た目が良い果物野菜になるように・雑草が生えないように・植物に病気が広がらないように・収穫が増えるように・・としているのであり、その結果としてもの言えぬ小動物達は生態系が崩れてしまっている。

それが本当に人間の幸せに繋がるのかと自問する。
一方で、最低限の生産は確保しなければ我々人間の生存権が脅かされてしまう。
では大規模農家の大量使用を規制すべきなのか。我が家のように小規模で少量だったら良いのだろうか? それもまたエゴのような気がする。
答えは出ない。
我々だって生活しているんだぞ (1) 
我々だって生活しているんだぞ (2)
我々だって生活しているんだぞ (3)

2013年9月12日木曜日

失礼な訪問者

秋晴れの下、今日も倒れた稲と泥と格闘した。
日が照るとまだ暑いが、流れる汗も秋の乾いた風に心地よく感じる。

刈り取った稲束をオダに掛けていると、道ばたに止まった車から男性が降り立ち、いきなり声をかけられた。
詳しい経緯は省略するが、この男性は稲藁のブローカー(仲買人または仲介業者)である。
田んぼにオダ掛けしてある稲藁を見つけては、その周辺で作業している農家に声を掛けてまわっているようだ。

         

年々、我が家のように稲束を天日干しにするような農法を行っている農家が減少している。多くの農家はコンバインで稲刈りし同時に脱穀するが、脱穀された稲藁はバラバラに細断されて田んぼにまき散らしてしまう。農家の高齢化と『おひとりさま農業(*)』化が進み、労働力の集中投下が必要なオダ干しなどは続けられないのである。
良質な稲藁が少なくなってきている所以である。

(*)おひとりさま農業
農作業において妻や子供など家族の協力をまったく得られず、仕方なく男性ひとりで農業を続けている農業形態。中山間地域の小規模農家・兼業農家に多い。また特に子供が娘だけの農家によく見られ、後継者不在という重たい課題がある場合が多い。自身の体力との兼ね合いからあと何年続けられるか不安を抱えており、悲壮感が漂うのが一般的である。これらはいわゆる廃農予備軍であり、この層の廃農が進むと農村の荒廃が加速すると指摘されている。現代の日本農業が抱える構造的な問題といえる。
かの渡辺ヘルムート氏の『ひとり農業』とは表面的には同じだが、農を楽しむ姿勢や将来に対する希望において、全く異なる。

藁を必要とする業種に、土産物として水戸駅・高速SA等で売っている『藁つと』に入った納豆を製造している会社がある。あの『藁つと』を作るために納豆製造会社は品質の良い藁を求めている。ただ、製造会社が直接田舎に出向いて藁を買い求めるなどはせず、稲藁の専門業者から調達する。農家と稲藁専門業者の間に登場してくるのが、この仲買人・ブローカーである。稲藁専門業者も直接は田んぼ回りはしないはずで、それぞれの地域を担当するこのような臨時のブローカー業者が活躍するのである。入手量は彼らの手に委ねられる。需要側としても必死なのである。なにしろ少なくなる一方のパイの取り合いであるから。

         

今日のこの来訪者には、心底頭に来た。
一言の挨拶さえなく、いきなり『そこの田んぼの稲藁はお宅の?』という唐突な質問から始まり、『藁を売る気ある?』『あんたはここの家の人?』、『藁を売るの? 売る先、決まってんの? どこ?』・・・。
はぁ??????????
なんだこの人は??
見える限り周囲には小生だけしかいない。どうやら他の人に向かって質問しているのではなさそうだ。

何もブローカーという業が悪いと言っているのではない。
われわれも農業で使う分以上の藁が売却できて現金収入を得られるということは、メリットある事だ。現に、毎年引き取りをお願いしている業者がいる。このお願いしている業者はごく普通の人たちである。

問題は、初対面の人に対する最低限のマナー、常識の片鱗もないこの男性固有のことである。
自分が求めるものを売ってくれるかどうか、交渉の端緒を開くことがまず最初ではないのか。そのためには、まずは初対面の挨拶(および労働の手を止めさせた詫びのひとつくらいあってもいいだろう)があり、自らをしっかり名乗るなりして、おもむろに声掛けした要件を手短に伝える、というのが第一段階のセオリーではないのか。そういうふうに礼を尽くして出られたら、当方だってしかるべき対応をする。
このような社会的な訓練がなされていない可哀想な人は確かにいる。なので、そのことについてはあまり怒ってはいない。ただ不憫には思っているが。
小生のこゝろは意外に広いのである。

逆鱗に触れたのはこの男が農家を明らかに見下していることである。そしてそれからくる高圧的な態度である(風貌も確かに胡散臭いものを感じたが、人は外見では判断してはダメだとかつて教わった)。
『(藁を)買いに来てやっている』
『条件なんか言う立場か、何が不満なんだよ』
『こうやってわざわざ来てやってるんだから、早くOKしろよ』
『お前らみたいな泥だらけ・汗まみれの肉体労働者とはオレは違うんだ』
・・とかなんとか心の中で言っているふうで、言葉に態度に如実に現れていた。
相手にする価値無し、と感じさせるに十分な彼だった。
当方が素っ気ない態度で無視を決め込んだら、交渉無理と悟ったのだろう、すぐに立ち去った。

あとで家人に風貌や話の特徴を告げると、以前にも我が家に来たことがあって同じように失礼千万だったので追い返した彼に間違いない、とのこと。
あんなふうでどれだけの農家が彼に売り渡すものだろうか。でも、毎年この辺りを回っていて声を掛けているらしいから、結構商売になっているのかもしれない。とすれば、あんな声の掛け方で交渉に応ずる農家もいるということか。どっちもどっちなのかもしれない。

         

稲藁も、納豆屋が求めたり、酪農家が牛のエサにしたり牛舎の敷き藁にしたりするのに必要、とまだまだ需要はある。
いずれの場合でも、仲買業者に引き取ってもらっても、放射線量の検査後にしか正式な価格が付かない。
福島原発事故はここにも影を落としている。

この自然相手の仕事もプライドを持って続けている訳だし、ひとから見下されたり、同情されたりする謂れはない。

ああ、それにしても怒りが収まらない。
(・・・『おひとりさま農業』は小生の造語である。為念。。)
稲刈りとオダ掛けの風景

2013年9月11日水曜日

これからの時代はSmartでCreativeな里山ライフだな

茨城北部を震源とする地震が時折発生する。
回数は減った感があるが、他の地域に較べるとやはりまだ多い方だろう。
比較的震度が小さいからまだ良いとしても、また3.11のような大きなものになるのではないかと、揺れ始めはいつも心配になる。

南海トラフ巨大地震が起こった際に想定される予想津波高や浸水域を事細かに示した日本全図が今年の3月に公表されたことを、まだ皆さんも記憶に新しいだろう。
対象とされた地域の人々は自分の住む場所の色分けを見ながら、思いは複雑に違いない。
日本列島はいろんなプレートがせめぎ合う場所に位置しているため、どの地域でも地震は多い。このような列島で生活していかねばならぬ以上、地震と賢く付き合う以外に手はあるまい。

         

2012年3月11日(東日本大震災のちょうど一年後)のブログにこう書いた。

(東日本大震災の直後には)超高層の建物に人が住むことを巡る議論があったやに記憶する。ガラスを多用する建築の危険性や、高層難民の問題も各方面から指摘されていた。あれらはどうなったのだろうか。
いまもなお、何事もなかったように高層ビルの住居は高級住人の代名詞である。
不思議でならない。
また、高さや巨大さをもてはやす空気は、依然としてこの社会を覆っている気がする。(昨年に、東京スカイツリーが完成して世界一の高さとなり、喜ぶ人が多かったようだ。また、最近竣工した東京駅周辺の高層商業ビルはおしなべて全面ガラス張である。エレベータの昇降さえも外から丸見えだ。これらを多くの人が美しく機能的と感じているのだろうと思う。タワーでもビルでも、耐震であろうが免震であろうがいざ大地震となったときには機能不全に陥るのは避けられないと思うが。)

悲しいかな、揺らぐ大地に生きて行くことを宿命づけられた我々である。
いつどこであのような震災が発生するか分からないのである。
であれば、巨大で複雑な社会システム(・・・これらは維持するのも莫大なコストを費やすのであるが・・)を構築して喜ぶよりも、もっと小さいシステム、身の丈に近い寸法を価値基準にして生きることのほうが、ずっと幸せに繋がるのではないだろうか、と思う。
自然の制約に逆らうのではなく、自然に添いつつの、いわば牧歌的に生きる文明の方向が、必ずあるはずである。
いい加減に目を覚まさないと手遅れになる。
無理矢理に目を覚まさせられるときがくるであろうことを、皆は薄々気がついているはずだ。目を背けていてはならない。まだ間に合う。
不便でも、快適さに欠けても、真の豊かさがある、そんな所だ。田舎は。


 文明の成果としての科学技術による便利さ・快適性を否定するものではないが、それを盲目的に過信し頼り過ぎることだけは避けたいと思う。
なんでもかんでも便利で快適にし過ぎると、人間の思考能力や本来持っている適応能力が減退してしまう。そのためにも、不便をあえて受け入れるストイックな生活も大事であろうと思う。

         

福島の原発事故は、放射能事故というものがすべての生命体にとってあまりに暴力的過ぎることをはっきりさせた。
福島においてもがき苦しんでいる状況の中にあって、南海トラフ巨大地震が発生し、仮に中部・西日本・日本海側にある原発で更なる大事故が起こったとしたら、国土の狭いこの日本はどうなるか。終わってしまうぞ・・ニッポン。
そんな事態にまでならないと、都市生活の快適さ・便利さを支える『物質至上主義・巨大技術信仰』の破たんは頭とともに体で理解できぬのかも知れぬ。

いまこうやっている間も、福島では高い放射線量の中で、廃炉作業や汚染水処理とエンドレスに戦っている人たちがいる。
大都市部の人々は原発事故が対策見通しさえ立っていない危機的状況であることを報道で知りながら、それを他人事として安穏と生活している(と見える)。面倒なもの・厄介なものは目に見えない遠いところに置いておき、意識から遠ざけておくかのようだ。本当に怖いのは無関心だ。
遠いよその国の話ではない。オリンピック招致に際して外国メディアが問題視するのは当然だろう。
茨城だって『東海村』があるので、けっして他人事ではないから、強くそう思う。

         

このような思いを強くしているのは、ホタルやミツバチたちとの共存を経て、彼らの訴えている声なきメッセージを感じ取っての影響が大きい。
人間が(むろん他の動植物たちもだが)真に幸せに生きてゆける環境とは、という重たい命題。
答えは皆も分かってることで明快なのだが、いまの社会ではただの理想的空想論でしかない。
そんなことは百も承知だ。現代の日本人が明治・大正以前の生活などに今更戻れるはずがないのだから。

甚だ自分勝手だが、他人の事はともかく自分だけは理想的空想論かもしれないがやれることをここで実践することにしている。しかも楽しみながら。
精神的にも肉体的にも健康で、充実した生活を生涯送るために、だ。

興味も関心もない人まで巻き込むつもりはないが、少しでも心ある人にはその活動としての農的生活・里山ライフをプチ体験できる場、ここを門戸開放したいと考えている。
これは勝手な想像だが、金スマ・ひとり農業の渡辺ヘルムート直道氏も、あの場所で同じようなことを感じながら生活されているではないか。
あながち見当外れではないような気がする。

不幸にも災害が発生し、避難を余儀なくされることがあるかもしれない。
そんな時、田舎と何の由縁もない人たちはどこへ行ったら良いのか戸惑うことだろう。
だが、一度でも訪れてその土地の人と多少なりとも御縁があれば全く違うはずだ。
いざというときのためにも、田舎と繋がることは価値あることだと思うが、どうだろうか。
万が一の時のためにも、自分の生き方を見直すためにもだ。
きっかけはどんなでも良いと思う。

と言う訳で、これからの時代はSmartでCreativeな里山ライフだ(持論)。
玉川村駅構内に下り水郡線列車が入ってくる。
日差しはまだまだ強くて暑い。
静かな真夏の昼下がりの風景だ。
周囲にはのんびりとした里山が広がっている。

2013年9月10日火曜日

MilkyWayの大三角もそろそろ

今年は稲刈りの作業でとにかく泥だらけになっている。
機械で刈れない部分が多いため(機械が泥に埋まってしまう、稲が倒れている等等)、結局はその泥濘の稲を手で一株ずつ刈り取り、手で束ねるため、自ずと体中が泥だらけと化す。
(ちなみに、束にして縛ることを当地の方言では『まるく』と言う。『円(まろ)かる』=丸くひとつに固める、という意味の古語が転訛したものだろうと思う)

昼に泥だらけの上下を脱ぎ、着替える。
夕刻にもまた上下を脱ぐ。
これら昼・夕方に脱いだ衣類を(あまりに泥がついているためまずは泥を落とす下洗いをしてからだが)、軒下の『二層式洗濯機』に放り込む。

肉体は相当に疲れているが、今日最後の作業である洗濯作業をする。
この時間もまた楽しく貴重である。

洗い・すすぎ・脱水の仕上がりを待つ合間に、すっかり暗くなった天を仰ぎ見る。
都会とは違って周囲にネオン等が全くないため星空がよく見える。
冬よりも夏の方が、天の川がミルクを流したように・・・まさにMilky Way・・・ほぼ北から南の空に掛けてはっきりと確認できる。うっすらと雲がかかったようにも。
星座のロマンなど理解する風流は持ち合わせぬ身だが、夏の大三角(これは星座ではないが)だけはすぐに見つけられる。

夜空を仰ぎ見ながらふと気が付いた。
自分の吐いた息が白く見えている。
夜の空気はすっかり冷えてきたようだ。
そういえば朝は特に涼しくヒンヤリしている。
常陸大宮市のアメダスデータ(場所は上小瀬)でも、最低気温は16℃くらいまで来ている。
我が侭なものだが、暑かった夏も過ぎてしまえば懐かしい。

まだまだ緑が支配している周囲だが、秋は着実に忍び寄っているようで、はや山桜の木々の葉だけは一足早く色付いて来ている。
秋の忍び寄りは、稲穂の波はもちろんだが、吐く息の白さや桜の葉の色付きで『目に』『さやかに』見えてきた。
ヤマザクラの葉だけが僅かに黄色くなっている
そうこうしているうち、夏の大三角がオリオンに取って代わられる日も近いかもしれない。
田一枚 刈りて清けき いわし雲 

2013年9月9日月曜日

稲刈りの友

稲刈りでしばしば出合う友を紹介する。
アメリカザリガニ
ハサミを大きく広げ威嚇してくる
クサガメ
毎年出合う
タニシ
夥しい数が転がっている。まさにジャラジャラ状態
その他、カエル、トンボ、カマキリ、コオロギ、カナヘビ、野ネズミ、キジ、ウズラ、コサギ、カラス、バッタ、ヘビ(マムシにも出合った。マムシだけはちょっと緊張感が走ったが、すぐに叩きのめして殺処分となった)・・・

これらにあまりに頻繁に出合うので、いちいち驚いたりはしない。
すべてがここの自然を共有する仲間である。

人間にとっても、小動物・昆虫にとっても豊穣な大地だ。
これら恵みを与え賜う、見えざる偉大なる力に、素直に感謝している。