2022年5月9日月曜日

機械に食われる農業

 4月から5月は田んぼの作業が忙しい時期だ。田んぼの土を掘り起こし細かくする。水を溜めて代掻きをする。苗を植える田植え。けっしてこれだけではないのだが、これらはこのふた月の間にしなければならない大事で、大変な労力を要する作業だ。天候に左右されることもあり、短期集中かつ労働集約的な農業の典型となっている。

代掻き作業
土がトロトロになるまで攪乱する
昔は牛に専用の器具を引かせて何度も歩かせた

このような狭く変形した谷津田では
二条植えの田植え機が活躍する

食糧自給・農業の効率化のためには大型機械導入による大規模化・省力化が必須であることは言をまたない。ましてや農業従事者の減少と高齢化が進んでいるのであるから。

しかし当地のような中山間地域で営農の大規模化ができない場所での農業ではどうしても最低限の機械化しかできないのが現状だ。年に数日しか稼働しない田植え機や稲刈り機などは壊れたからと言って高額な新品は導入がためらわれる。とてもいまの農業収入では償却できない。かといってこれ等の機械がなければ耕作が継続できないのも事実なのだから悩ましい。

おそらくだが、我が家のような中山間地域の農業と同じく、平野部で規模を拡大し大型農業機械がほぼ必須の農家でも、この機械がもたらす収益の多くは減価償却として機械自身に食われているはずだ。働けど働けど我が暮らし楽にならず・・ではないのか。何のために大規模化し収入拡大化を目指したのか分からぬようになってはいまいか。ちょっとでも前提条件が狂う(経営者の病気・機械の故障・風水害)と成り立たなくなる。共済や保険があるとしてもだ。

農業とは本来、その土地で人が一生懸命に働き、自然を活用して価値を生み出す産業である。土地が本来持つチカラを発揮できるよう条件を整えるために、人間がしっかりと自然を観察することが何よりも大事だ。一律に否定するものではないが、いとも安易に農薬や化学肥料、ひいては自然を無視した農業技術(冬場にキュウリやトマトを栽培するためにわざわざ暖房するようなこと)に頼るのは本来の姿ではない。

規模は小さくても低コストで農業を続けられる方向に舵を切らないと行き詰る。政策立案に長けた頭が良い中央の方々の机上のプランではなくて、現場の実情に沿った実現可能な策が必要だろう。100%ではなくとも最適な解はきっと見つかるはずだ。知恵の出しどころだろう。

などと思いながら、日常的に軽トラ・トラクターを使い、いまの田植え時には田植え機のお世話になっている。これらが壊れた時に次の機械を購入する決断ができるだろうか。次世代が今の状況での農業を継ぎたい・継げるとは思えない。かように理念だけでは続けられない厳しい現状がある。けっして望むところではないが耕作放棄も致し方ないときがやってくる。ご先祖様にはほんとうに申し訳ないが、現世を生きる我々の「生活」が優先されてもいいのではないかとも思う。

こんなところから地方の崩壊が深く静かに進行しているように見える。明治以降、近代~現代農業は進歩したように見えて百数十年でなにやら行き詰まりを見せつつある。平野部の大規模農業はひとつの専門工場の体であるのでそれらは横においておいて、ここらで「里山」に新しい視点の価値、ここでしか生み出せない価値を見出す思想が必要なのだろう。この過疎っている田舎には何もないようだが、実はお宝が埋まっていると密かに考えているのだがなかなか答えが見つからないでいる。

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