2016年6月17日金曜日

6月23日

間もなく6月23日だ。
本土の人、とくに若い人にとっては関心が薄いかも知れぬが、沖縄県民にとっては特別な日『慰霊の日』だ。
1945(昭和20)年のこの日に沖縄防衛三十二司令長官・牛島中将が摩文仁で自決し、沖縄戦での日本軍の組織的抵抗が終結した。3月から始まった米軍上陸。熾烈を極めそれからの3ヶ月間というものは沖縄の地は地獄であった。
この日は、今上天皇が忘れられない4つの日(6/23、8/6、8/9、8/15)の一つという。天皇陛下も心痛めておられる日である。
小生にも沖縄出身の同世代の知人がいるが、(父母世代から沖縄戦は聞いて学んで育っているだけの彼らにしても)この日を強く意識しているように思う。
                                          
『ひめゆり学徒隊』は沖縄県立第一高等女学校の生徒による女子学徒隊だ。
この隊の編成には、当時の沖縄師範学校の校長であった『野田貞男』という人物が関わっている。学徒隊の編成を指揮することになったいきさつは分からぬが、生徒たちからたいへん慕われた先生だったようだ。この戦いの中で6月21日に殉職している。

実は、野田貞男は1943(昭和18)年4月に沖縄師範学校に着任する前は、茨城県女子師範学校の校長であり茨城県ともご縁のある方だった。
なぜこんなことを知っているかというと、戦後の一時期教師をしていた母が生前にこの話をしてくれたからだ。母から聞いたのは『水戸の師範学校の校長だった先生が沖縄で戦死している。いい先生だった』と、これくらいの内容だったと思う。名前を聞いていたのかもしれないが記憶には残っていない。当時高校生だった小生はこの話を特に気にも留めずにいたものだ。
それから長い時を経て、かの地の戦跡を訪ね、沖縄の戦禍について深く知ることになる。そして豊富な書籍・ネット情報により詳細を容易に得られるようになって、『野田貞男』と言う具体的な名前や『ひめゆり学徒隊』の編成に携わったという事実を知る。
彼の『激しい戦闘の最中、生き残った職員・生徒を集めて労い「死を急がず生き永らえよ」と諭すなど、その明朗かつ情念に満ちた人柄は生徒から慈父として仰がれた』(Wikipediaより)というその人物像についても、だ。
戦前の古き良き時代の日本の、教育者の手本のような先生だったのだろう。
おそらくは母にとっても大きな影響を与えてくれた師であり、教師を辞めてからも母の記憶の中に『野田校長』の凛とした姿がずっとあって、輝きつづけていたのであろう。

71年前の今頃はまだ必死に逃げ続けてた人々がいる。もっともっと生きていたかったであろう命たち。思いを残しながら亡くなっていった人々の御霊に合掌。。。

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