富岡製糸場は2年ほど前に訪ねたことがある。
まだ遺産登録や国宝指定前であり、単なる(失礼ではあるが、ちょっと寂れた地方にある)一観光施設といった感があったが、いまやりっぱな世界に誇る施設。きっといろいろ関連設備が整えられたことだろう。
ここで作られた絹糸は明治時代の我が国の重要な輸出品で、富国強兵・殖産興業を目指す当時の日本としてはこの富岡製糸場は重要な施設であった。日本の近代化を支えたのである。
だが、残念ながら長い間この施設のステータスは低いものであったといえる。
なんとも残念なことだが、訪ねた当時は地元富岡としてのアピールも含めてそんな感じがした。
年に数回、蚕を育て繭にして出荷していたのである。屋敷の周囲には桑畑がたくさんあった。
蚕というデリケートな生き物を扱うがために、その飼育作業は大変であった。
新鮮な桑の葉しか食べないので、随時桑の葉(成長してからは葉が付いた枝ごと)を与え続けなければならない。夜に葉を与えることもしばしば。よく手伝わされたものだ。繭の出荷作業も完全手作業のようなもので家族総出でやっていたものだ。養蚕を止めて久しく、今となっては懐かしい思い出だ。
当たり前だが、絹は蚕の繭から作られる。ひとつの繭から数キロの長さの絹糸がとれる。
かつて娘が学校の授業で蚕を飼うことになり家に持ち帰ったことがある。繭を取るところまで(長さを測るところまで)付き合ったが、巻き取りながら絹糸の長さをつくづく実感した。
素晴らしい生き物だと思ったものだった。
一般的に知られている白い繭は「家蚕(かさん)」という、家で飼われている蚕であり、桑の葉を食べて大きくなる。商業ベースでかつて多く飼われていた蚕である。白い虫である。
一方で、山野など自然に生息している蚕もいる。こちらは「野蚕(やさん)」と呼ばれ、野生の植物を食べている。
一方の柞蚕はクリ、カシ、カシワなどの葉を食べるために、繭の色は淡褐色で、繭は少し大きめになにる。
ここしばらく、山の木立の伐採に余念がないのだが、我が家の山でも時折この天蚕の繭を見つけることができる。
萌黄色の独特の光沢がある繭だ。
天蚕の繭。空っぽである。 |
この繭から取った絹糸で紡がれた糸で織られる布は、さぞや素晴らしいものに違いない。
以下は宮内庁のHPからの一部引用である。このようなこともあるようだ。素晴らしいことではないかな。
日本国内で絹が既に輸出品としての往時の地位を失い,皇室のご養蚕が産業の奨励の対象とは全くかけ離れてしまった平成の時代にあって,皇后陛下がなおご養蚕を続けておられるのは,国内で未だ熱心にこの伝統文化を守っている人々に対する,強い共感と連帯のお気持ちでした。絹という,この美しいものを蚕から作る技術が日本から失われることのないよう,今日まで先人が営々と蓄積してきた養蚕の手法を,せめてもう一世代は残しておきたいという皇后陛下の願いが受け入れられ,今,皇居の紅葉山の御養蚕所では,養蚕の最盛期,日本の養蚕家が行っていたとほぼ等しい手作業が,春または初夏の2ヶ月間行われており,主任を含む5人の奉仕者と共に,皇后陛下は日々の公務の間を縫い,この作業のほぼ全ての工程に関わっておられます。
こうした中,平成2年(1990),廃棄寸前であった古い蚕の1品種で,皇后陛下が「もうしばらく育ててみたい」と留保された蚕の糸(現在のものの1/2の太さ)が,日本の貴重な文化財である古代織物の復元に,不可欠の役割を担うという意外な展開がもたらされました。
過去の御養蚕所では,次第に改良を重ねた品種と共に,純国産の「小石丸」という蚕も飼育されてきました。この品種は,明治,大正初期には,その糸の美しさ故に珍重されたものの,生産性が低いことから次第に廃れ,昭和の終わり頃には皇室でわずかに残っていたものもその廃棄が不可避とされていたのですが,新たに平成のご養蚕が始められたとき,皇后陛下のもうしばらくこの品種を留保なさりたいとの願いから,少量ながら飼育が続けられてきました。
ところが,この繭から採れる繊細な絹糸が,平成6年(1994)から計画されていた正倉院宝物の古代裂(8世紀)の復元に欠くことができないものであることが明らかになり,飼育を続けることとされた皇后陛下の決断が,宝物の古代裂の一連の復元事業につながり,さらに鎌倉時代の絵巻(1309年頃)の名品の修理にも用いられ,日本文化の継承に大きな足跡を残すことになりました。時代が変わって,皇室のご養蚕に新たな意義が加わることになったのです。
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