10月も中旬にさしかかり、時季はまさに秋たけなわである、と言いたいが今日も実に暑かった。三重県/亀山では32.7℃で東京でも30.2℃だったそうだ。立派な真夏日。水戸でも29.7℃。わが常陸大宮市でも28.0℃ときた。まだまだ真夏の趣きではないか。
これから収穫時期を迎える野菜や生育段階にある野菜に影響が出はしまいか、心配ではある。
閑話休題。同世代のある人と話をしていて、そのとおりと激しく頷いたこと。
たとえばある優れた技を持つ職人さんの仕事について、その方がどれほどの年月にわたる努力と研鑽を積み、苦労に苦労を重ねてその域に達したのか、いま淡々と仕事をしている姿を見ても、敬意を払えない人が増えているのではないか、ということ。
あたりまえ的に出来るようになったとしか思っていない人が(特に下の若い世代に)多い。
それは皆が毎日口にする食べ物についても同じで、生産者しかり、流通業者しかり、調理するひとしかりで、それぞれの人の苦労があるから、スーパやコンビニで食べたい時に食べたいものが容易に手に入る。そこにそのような形で並んでいるのが当たり前、と知らないうちに思い込んでしまっている。
いずれも、目の前の事象・現象だけを認識するにとどまって、その背景やらまで深〜く慮るチカラが無くなってきているよね、ちょっと人間としても薄っぺらいかもね・・という点で妙に話が合った。
我々世代まではかろうじて以前の姿を見聞きして知っている。またかつての学校教育のなかでも修身とは言わないまでも、道徳としてある程度は学んできた。
そこにそういったものに対する敬意がうまれる素地があったように思う。
だが、今の若い世代は物心ついたときから便利な時代であり、余計な事を考えなくて済む時代だ。
背景にある携わった人の苦労やら思いやらという『余計なもの・煩わしいもの』が自ずと見えなくなっている、見え難くなっている時代だ。
なんでも便利だと、深く考えると言う事もしなくて済む。この便利さの背後に潜む問題は長い目で見ると深刻な事態を引き起こすだろう。すでに兆候は出ているが。。
我が立場で言えば、『ご飯を残す』人はいかがなものかと思う。
昔の家庭では何処でも『ご飯を残す』ことは悪で親に叱られたものだったが。
これなども農家の数限りない苦労を(体験すればなおさらだが)知っていたら、到底残す=捨てるなど出来ないはずなのだが。
目に見えないものを想像するチカラ。これが人間としての深みやら厚みを増す源泉だと思う。
農業の場合は、さらに自然に対しての謙虚さも必要だ。
万物を支配する見えないチカラがあるからこそ豊かな恵みがある。
日本で言う、八百万の神であるかも知れないし、今年が式年遷宮だった伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ=太陽を神格化した神)や豊宇気毘売神(とようけびめ=衣食住の守り神)のようなものであるかも知れない。あるいはアブラハムの宗教(ユダヤ・キリスト・イスラム)で言う『創造神』かもしれない。
自然と向き合う農業はなんとも奥が深い。そこが好きなのである。
常陸秋そばはもうしばらくすると収穫の時期となる 新ソバの恵みは神からの贈り物だ |
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