2022年10月31日月曜日

100の文字

今年の12月で玉川村駅が開業してちょうど100年となる。(山方宿駅もだ)

全くと言っていいが、このことについてJRも含めて地元自治体も何ら祝福のイベントもない。そもそも100年目であることを知らない人がほとんどなのではないかしらん。

先行して2018年10月に同じく開業100年を迎えた常陸大宮駅でも、何にもなかったのだから致し方ない、とは思う。でも地元民としてはちょっと寂しい。

明治時代、地元選出の国会議員である根本正(ねもとしょう)氏がこの水郡線開設にあたってどれだけの熱い思いで国会で論戦を繰り広げ、政治的な動きを展開して開通にこぎつけたか・・。この経緯を記した本を読むと胸が熱くなる。間違いなく水郡線敷設の偉大な功労者である。西金駅前と常陸大子駅前に彼の胸像が立っているが、その功績を知る人もいまでは少ないのだろう。無論彼一人の功績ではなく、敷設ルートにある地元の首長や一般村民の惜しみない協力と尽力があったからでもある。

この100年で世の中の環境が激変し、ご存じの通りいまや典型的な赤字路線である。可能性として区間廃止も検討されてもおかしくないような状況になってしまったが、とにかくこの一世紀にわたり地元の移動手段足としての役割だけではなく、文化をももたらしててくれた。単なる経済効果だけでなく、鉄道が通っていることで得られる安心感とでもいうべきも見過ごすことができない。かように地元民にとっては代えがたい財産であり誇りでありえたはずだ。

現実的には、開業からしばらくの間は県北で取れるの農産物・林業資源の首都圏への重要な搬出ルートで存在感補示し地元を潤わせた。その恩恵は膨大なものがあったのである。そしてもっと実感できるものとして、沿線で生まれ育った人はすくなからず通勤や通学でとにかくお世話になったはずだ。この鉄道路線なかりせば(たとえば水戸へ出るのも困難であるので)進学する先も制限されたりしたのではないか。鉄道がもたらしたメリットは計り知れない。もしこの鉄道なかりせばのんびりした山間の村々で留まっていたのである。容易にイメージでき、すぐにわかることだろう。

このなんらの祝福ムードなしの状況があまりに寂しいので、「玉川村駅開設 勝手に100周年」イベントをやってみた。きれいになった山肌に、ソーラーLEDランプで「100」の大きな文字を作ってみた。

夜に水郡線車窓からはこのように見える
真っ暗な山の斜面に100が浮かび上がっている
(29kmの標柱付近からの撮影)


文字の大きさは縦が約20mほどある

起伏のある山肌であり、きれいな文字を浮かびあがらせるのはなかなか難しかったが、遠目にみればちゃんと識別できる100となった。水郡線の車窓から(LEDであるため夜だけ)見える場所にある。そもそも玉川村駅を通過する列車は乗車客数が少ないし、夜は真っ暗いだけの場所で外をどれだけの方が見ていてこの文字に気づいてくれているかはわからぬが、まあそれでよい。(今日日、列車内では皆一様にスマホを繰って下を向いているので、何もあるはずのない真っ暗な窓の外などを眺める人などは皆無なのだろう)

今宵もまたいつものとおり暗闇の中、(乗客の姿は見えないガラガラの)水郡線は走り続けている。そしてひっそりと暗闇の中で100の文字が浮かんでいる。

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