2021年7月26日月曜日

無縁仏

 祖を同じくする一族の集合墓地がすぐ近くの山裾にある。

その一角の隅の方に「無縁仏」の墓がある。あるといっても代々そのように言い伝えられてきたもので、その正確な場所やいつの時代にどのような人が葬られたのかも不詳だ。かつてあったであろう土盛りも既に無くなっている。

場所は「大体この辺りだっぺ」、いつごろかは「昔のことだ。たぶん江戸時代だっぺな」、誰かは「わかんねぇ、この辺りに来てた漆掻きの職人か薬売りかもしんねぇな」・・といった感じで子供のころから聞かされてきた。もはや伝承の記憶も定かではないくらい昔のことになっていたわけだ。

ではあるのだが、「おそらくこの辺り」の場所を毎年盆の前には丁寧に草を刈り、盆には皆が線香を上げてきたのである。各戸でも似たり寄ったりの伝わり方をしているようだ。

人間は何か見えるもの・形があるものがあったほうが(大切なもの・ことを)信じることがしやすい。何か形あるものがあると心にすっと入りやすいということ。逆に言えば悲しいもので何もないとなかなか信じられないということでもある。

なので何もない平らな草叢に線香をあげて手を合わせるよりも土盛りなり墓石の一つもあれば、自分たちの先祖とは全く関係ない人の墓であっても気持ち的にすんなりと線香をあげられるのではないかと思い続けてきた。

昨年秋の彼岸過ぎに、「埋葬推定地」に土盛りを復活させ墓石に適した自然石を探してきて立ててみた。これだけでも一大事であったが、何も彫られていない石はやはり奇妙に映った。



今年の盆に間に合うように、この自然石に「無縁仏」の文字を彫ってみた。石材店に文字彫を頼むことも一瞬頭をよぎったが、この地で倒れ無念の最期を迎えた名も知らぬ人のことに思いを馳せながら、ひと彫りひと彫り作業してみてもいいなぁと考えた。



出来栄えはご覧の通り。素人ながらやればなんとかできるものである。

決して機械彫りのように整った文字でキレイに出来上がったわけではない。だがかつてここに眠る人を手厚く葬った一族の末裔が、令和の時代にこうやって改めて供養のための手彫り墓石を建てたということは、何もないこと慣れていたわが一族の誰にとっても意義のあることだろう。今年の盆の墓参りには皆がこの前で手を合わせてくれる。遠い昔に泉下の客となった某もきっと喜んでいるに違いない(と思いたい)。


この墓地にもたくさんあるが、江戸時代に建てられている墓石の文字はなんとも美しく素晴らしい。どうやって彫ったのだろう。石彫職人の匠の技に改めて感心した。

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