一昨日、昨日の局地的大雨は、カラカラだった大地にたっぷりのお湿りを与えてくれた。適度な量と間隔の雨は大歓迎だ。
玉川村駅近くに咲かせているヒマワリは今が盛りだ。
お化けカボチャの実の状況である。ますます巨大化している。
今日の段階で一番大きいもので、直径約50cm、胴囲は166cmとなっている。まさにお化けサイズだ。
他の苗のものを含めると全体では10数個の実が付いている。大きさもバラバラだ。これらが無事収穫できた暁には、皆さんに見てもらえるような場所に展示できたらと思っている。
祖を同じくする一族の集合墓地がすぐ近くの山裾にある。
その一角の隅の方に「無縁仏」の墓がある。あるといっても代々そのように言い伝えられてきたもので、その正確な場所やいつの時代にどのような人が葬られたのかも不詳だ。かつてあったであろう土盛りも既に無くなっている。
場所は「大体この辺りだっぺ」、いつごろかは「昔のことだ。たぶん江戸時代だっぺな」、誰かは「わかんねぇ、この辺りに来てた漆掻きの職人か薬売りかもしんねぇな」・・といった感じで子供のころから聞かされてきた。もはや伝承の記憶も定かではないくらい昔のことになっていたわけだ。
ではあるのだが、「おそらくこの辺り」の場所を毎年盆の前には丁寧に草を刈り、盆には皆が線香を上げてきたのである。各戸でも似たり寄ったりの伝わり方をしているようだ。
人間は何か見えるもの・形があるものがあったほうが(大切なもの・ことを)信じることがしやすい。何か形あるものがあると心にすっと入りやすいということ。逆に言えば悲しいもので何もないとなかなか信じられないということでもある。
なので何もない平らな草叢に線香をあげて手を合わせるよりも土盛りなり墓石の一つもあれば、自分たちの先祖とは全く関係ない人の墓であっても気持ち的にすんなりと線香をあげられるのではないかと思い続けてきた。
昨年秋の彼岸過ぎに、「埋葬推定地」に土盛りを復活させ墓石に適した自然石を探してきて立ててみた。これだけでも一大事であったが、何も彫られていない石はやはり奇妙に映った。
今年の盆に間に合うように、この自然石に「無縁仏」の文字を彫ってみた。石材店に文字彫を頼むことも一瞬頭をよぎったが、この地で倒れ無念の最期を迎えた名も知らぬ人のことに思いを馳せながら、ひと彫りひと彫り作業してみてもいいなぁと考えた。
出来栄えはご覧の通り。素人ながらやればなんとかできるものである。
決して機械彫りのように整った文字でキレイに出来上がったわけではない。だがかつてここに眠る人を手厚く葬った一族の末裔が、令和の時代にこうやって改めて供養のための手彫り墓石を建てたということは、何もないこと慣れていたわが一族の誰にとっても意義のあることだろう。今年の盆の墓参りには皆がこの前で手を合わせてくれる。遠い昔に泉下の客となった某もきっと喜んでいるに違いない(と思いたい)。
この墓地にもたくさんあるが、江戸時代に建てられている墓石の文字はなんとも美しく素晴らしい。どうやって彫ったのだろう。石彫職人の匠の技に改めて感心した。
暑い日が続いている。まだ8月になっていないのに猛暑日やら酷暑日やらの気温が各地で記録されている。ここ数日は北海道地方が暑くて堪らないらしい。
かつて(半世紀ほど前まてか)は北海道では米作りは難しいというのが常識だったように思う。いつの間にか品種改良の成果と相まっていまや立派なブランド米の生産地となっている。この半世紀に起こっている変化は間違いなく温暖化だろう。そのうち本州以南では暑すぎて従来の農産物が旬の季節にちゃんと実らなくなるのではないか、などと心配もする。
我が家の田んぼの稲も順調に生育しており、一部に出穂(しゅっすい)が見られるところまで来た。あとひと月もすれば稲穂が首を垂れて、9月に入れば稲刈りの段取りを心配するようになる。早いものだ。
ここ谷津田の稲は品種はコシヒカリ。降った雨水と周囲の山から染み出る水だけで育っている。ここのコメには「安心して食べられる」というプレミアムが付く。他の場所で育つ同品種のコメと基本的に味に違いはないはすで、人の舌ではその違いは分からないに違いない。だが、育った環境や背景を知ったうえで口にするとまったく別物になる。
この谷津田のように生活雑水を含む水が一切入らない田んぼというのは、周囲を見渡しても極めて稀である。大規模農家の大きな田んぼは間違いなく河川から取水した農業用水を流し込んでいる。それほど大規模の田でなくともほとんどの田で使用する水は人間が使用した生活雑水が流れ込んでいる川からのものだ。河川からの取水で無くても直ぐ傍に家やゴルフ場など人工的な施設があるケースがほとんどである。
この谷津田のコメに確かなことは、田に流れ込む水が染み出る山々には人工的なものが一切ないため極めて清浄な水で育っていることと、農薬も田植え時に殺菌・防草剤一回だけに限って行っているということ。ついでに言うと天日干しして自然乾燥しているコメであるということ。
いろんな生き物が生息している田んぼ |
クモが巣を張っている |
生産者としては、間違いなく安心して食べられるコメである点では断然優位に立つと思っているのだが、出荷すると同じ扱いされるのが残念で仕方ない。我が家で消費するコメは全てこの田んぼのコメだ。
今年の果実類は豊作のようだ。
特にプラムが大豊作だ。(正しい品種名はわからないがプルーンと記憶している)今実が色付いている木は実が付き過ぎて枝が折れてしまった。例年この木は虫が付いて落果が激しくて赤くなる前にほぼ全てが無くなっていた。このような姿は初めて見た。まともに食したのも初めてで、爽やかな酸っぱさと甘味がちょうどいい。来年はならないかも知れないと思いつつ枝から捥いでかじっている。今年はだいぶ堪能させてもらった。
このザルに盛ったやや大振りの実の別品種のプラムも久しぶりにたくさん実を付けた。
見事な色と大きさだ。スーパーで販売されているものと何ら遜色ない。手入れしてない果樹の割には味も満足できるレベルだ。
これらも旬の時期は過ぎた。梅雨明けが近そうだ。
今日は梅雨の晴れ間。
久しぶりの青空が広がった。空ってこんなに青かったのだとふと思った。
照り付ける太陽は真夏のそれ。野山は深い緑。そのすべてがこの強烈な太陽の光の下、命の息吹に溢れている。
カッコウは言うに及ばず、ニィーニィ―ゼミもヒグラシも鳴き始まっている。
夏来たるらし。良い季節・好きな季節だ。
ハロウィンが近づくころ、とてつもなく大きなオレンジ色のカボチャ=ジャンボカボチャの収穫が話題になる。各地で大きさ・重さのコンテストが行われたりもする。ハロウィン時期の店の装飾にもよく使われるあれだ。一度は目にしたことがある人も多かろう。とにかくその巨大さ故に強烈なインパクトのあるカボチャである。
今年、このお化けカボチャの苗を手に入れる事ができた。
畑に植え付けてほぼひと月。苗がだいぶ大きくなった。この段階で既に食用に作っている一般のカボチャとは、全てが段違いの大きさである。
こちらは食用の普通のカボチャの葉 |
お化けカボチャの葉 茎も蔓もすべてがジャンボサイズだ |
既に花も咲いて受粉も終わっている。小さい(といっても既に握りこぶし大となっている)カボチャの実になっていてスクスク生長中である。
これから茎を摘んだり摘果したりして、一つの蔓には1個だけの実しかつけないようにコントロールしつつ、栄養を集中させカボチャの巨大化を図る。肥料も大量に必要とするらしい。色づきを良くするため日光に当てる具合も気を配る必要があったり、重たくなる前に実の下に座布団を引いたり、運び出しやすいような工夫も必要になるとも聞く。
とて、どこまで大きく育てられるか楽しみだ。とりあえずの目標は40kgだ。
プラムの旬は足早に過ぎてしまった。今は青々とした葉の間に、高所で取り残した僅かな実が残るだけだ。
2本ある同種の樹が一斉に収穫期を迎えるとどうしても作業が追いつかない。もったいないと思いつつ、熟して落果する実を眺めている。
熟して地面に落ちたプラムは、(ベタベタ・ぐちゅぐちゅ・ぐにゃぐにゃであり)われわれには既にゴミ扱いでしかない。だがミツバチにとってはまたとないご馳走であるようだ。
じっと見ていると、このベタベタ・ぐちゅぐちゅ・ぐにゅぐにゃの辺りで羽音がすごい。盛んに群がり甘い蜜を吸っている。当然ハエもいるのだがミツバチのほうが断然多い。
花の蜜だけではなく、こうやって甘い甘い果実の蜜も集めては巣に持ち帰りため込んでいるようだ。
ニホンミツバチの百花蜜は、こうやっていろいろな蜜の素が集められブレンドされ熟成されている。複雑で奥深い味になるわけだ。