既に田んぼでの農作業は終わっているので、普段はそこで人の姿をほとんど見かけることはないのだが、このときだけは線路周辺の撮影スポットには早朝からの陣取り合戦があって、異様な光景だった。
少しでも良い場所を求める気持ちは分からぬでもないが、マナーもなにもない一部の人間のために、迷惑した付近住民も多かった。
運行本番当日の、駅周辺の空き地や路上への迷惑駐車は、いまも語りぐさである。
今年はそんな喧噪もなく、いつもの静かな山里である。
いつもと同じように山の木々は色付き、イチョウは見事に黄金色となっている。
実は、JR水郡線・玉川村駅は昨年2012年12月に開業90周年を迎えている。
(詳しくは開業日は1922年=大正11年12月10日。常陸大宮駅までは大正7年に開通しており、大正12年のこの日に山方宿までやっと延伸になったのであった)
SL運行はその記念行事というのが小生の中で位置づけであったのである。
玉川村駅と山方宿駅以外の駅にとっては周年行事には当らないので、JRを含めそんなことは誰も言っていない。小生だけが独り静かに祝福していた訳だ。
水郡線は100年ほど前の明治時代後期から、茨城選出の衆議院議員・根本正(ねもとしょう)が帝国議会で鉄道敷設を熱心に唱え、幾多の困難を乗り越えて開通させた線路である。
⇨ この話は別の機会にしたい。
始発駅が水戸駅ではなく勝田駅だった可能性だってあったこと、私鉄・水戸鉄道として既に開通していた水戸=常陸太田間であるが、当時の常陸太田市民は新路線の開設に反対運動を起こしたこと、などなど。
我がご先祖様は根本代議士と昵懇だったようで、現在のルートに線路を敷き、いまの場所に駅を開設すべく奔走したと聞いている。根本代議士からの手紙が我が家には多数現存している(ただ、悲しいかな毛筆の達筆で読めない)。
(ご先祖様の名誉のためにあえて言及しておくが、根本代議士に賄賂を贈ったり、接待したりをした訳では断じてない。あくまで西部山間地域で産出する資源(葉タバコ・材木・白谷石等)輸送においての地政学上の有利性を説いたのである。根本代議士も接待やらで左右される御仁ではない。大局的な見地から県北地域の将来にわたる発展のための総合的かつ合理的な判断をした結果である。)
そんなロビー活動が奏功したのだろう、下の地図で見るとよく分かるが、常陸大宮駅から山方宿駅までは(真っ直ぐほぼ国道118号線沿いに北進するのが自然だろうと言う)大方の予想に反しての西に大きくカーブした線路となっており、その真ん中に玉川村駅は作られた。さすがである。
開業して半世紀は賑わいを見せたものの、この40年は衰退の一途であるのはご承知の通り。
100年の後にはモータリゼーションがここまで発達し、利用客が激減することまでは明治~大正期に生きたご先祖様もさすがに予見できなかっただろう。
そんなこんなの玉川村駅の90年の栄枯盛衰を思いながら、昨年のSLを見送ったのであった。
ご多分に漏れず当地域も少子高齢化が進み、駅周辺が寂れて久しい。
廃れて行くだけの街であってはいけない。何か出来ることはあるはずだ。
2012/11/24の試運転時 |
ギャラリーの歓喜の声をもって迎えられた本番日 大量の蒸気を吐き出しばく進するSLの雄姿は絵になった 玉川村駅のハレの日でもあった 2012/12/01 |
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