先日、玉川村駅前の「初音屋」だった古い建物が解体撤去された。
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在りし日の初音屋(2017/4撮影) |
長い間、廃屋の無残な姿を晒していて、お化け屋敷状態だった。列車からも見えたし、駅前を車で通ったことがあれば、その存在を知らぬ人はいまい。
いよいよ倒壊の危険が大きくなったのであろう、つい先日解体されて今ではきれいに整地された。
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2017/6/24撮影 |
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写真左は営業中の二方菓子舗 |
この建物、一部のマニアにはよく知られたもので、わざわざ訪ねてきて写真を撮る人もいる。なぜこんな建物を訪ねてくるのか地元民にとっては不思議なようだ。
解体撤去されたことを知ったら、残念がる御仁もきっとおられるに違いない。
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玉川村駅周辺が賑わい活気に溢れた時期は、大正末期から昭和三十年代後半である。
茨城県北西部の農林産物(葉タバコ・繭・茶・炭・薪・材木・白谷石など)を鉄道輸送するための集積駅として、玉川村駅が大正11年(1922年)に開設され、ひと・モノ・情報・カネがこの地に集まった。当然のように、運輸を担う日本通運の事務所、人を運ぶタクシー事業者、地元の金融を担う農協など、社会機能の諸施設が整備されていった。
時を同じくして、集まりくる人のために宿泊施設と飲食店が開店し、街が形成されていった。宿泊施設は多くが木賃宿である。柴田屋・平和屋などがそれだ。中には「東野屋」というやや格が高い旅館もあったという(現在のみつぎデンキの位置)が、戦時中に店を閉じている。
そして、多数の人が集まるところに飲み屋など飲食・歓楽施設ができるのは必定である。飲食店の代表格は何といっても花輪屋だろう。いまも旧店舗の建物前には大きな雨水桶があり、店名が彫り込まれている。こちらもマニアには注目度の高い建物だ。
駅の後背地人口も多い時代で、通勤通学に駅の利用客も多かったし、それに加え荷役などの仕事で集まる人々も多く、街は活況を呈した。呉服店・洋品店・酒屋・食料雑貨店・自転車屋・菓子屋・魚屋・豆腐屋・電気屋など等が立ち並び、いまの寂れ具合からはとても想像できないが確かに「商店街」があったのである。加えて、小規模ではあったが舞台小屋的な映画館も存在した。まさに玉川村駅前が栄華を極めた古き良き時代である。
Pax-Tamagawa-na。。。
『赤線跡を歩く』(木村聡 著 ちくま文庫 2002年)という本に、この時代の玉川村駅の様子が紹介されている。昭和30年発行『全国女性街ガイド』なる全国の遊里を紹介している本からの引用だ。
『全国女性街ガイド』には、玉川村駅には「
特殊飲食店」略して「特飲」と呼ばれた飲食店が4軒、酌婦が17名いるとあるそうだ。ちなみに水郡線の他駅については、上菅谷宿(38名)、常陸太田(48名)、瓜連(特飲7軒)。静駅(特飲2軒、9名)と紹介されていて、駅も町並みもずっと大きい常陸大宮駅を差し置いての、玉川村駅の紹介である。いかに賑わっていたかがこれだけでもわかるというもの。
この『全国女性街ガイド』には軒数・人数だけの記述で、具体的な飲食店名は書かれていないが、ときどき写真を撮りに来ている人たちはこの「初音屋」を特飲の4軒のうちの一軒に比定しているようである。
その理由は、前述の『赤線跡を歩く』に「初音屋」が写真入りで大きく掲載されていることによる。ただこの文庫本でも、単に元料理屋としているだけで特飲と断定してはいないのだが、本を手にすれば著者の思い込みが伝わってくる内容となっている。
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全国の有名どころを写真中心にして短文をつけて紹介している。
東京では吉原をはじめとして16カ所、関東各地は横浜・横須賀など14カ所、
関西は飛田新地など6カ所を紹介している。
吉原が8ページで水戸が6ページなのに、なんと玉川村駅ページは単独で4ページもある。 |
だが結論から言うと、この「初音屋」の建物はここで接骨院を営んでいたアズマ(東?、吾妻?、我妻?)さんという方の個人住宅兼店舗だったものであり、特飲ではないというのが事実だ。建築当初から、贅を尽くして粋を凝らした建物として知られていたようだ。アズマ氏が廃業・転居した後、別人が小料理屋(飲み屋)部分を増築し、オープンさせたものである。昭和五十年代初め頃まで飲み屋「初音屋」は細々と営業していたので、小生の年代でもよく知っている。
ここには楼にも似た立派な二階部分と店舗裏側の座敷部分があるために、著者の木村氏はそのようなニュアンスで紹介したのであろう。
残念なことにこの特飲なる業態の話は、あまり表立っては話題にしにくい話であるために、当時の様子を知るはずの古老も(本当は知っているのかもしれないが)口が重かったり、話題を回避する傾向にあるので確かなことは不明だ。むろん文書記録などの一次資料は皆無である。
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同じく駅前にある『花輪屋』は間違いなく飲み屋だった場所。こちらは女給仕が複数在籍していたことは何人もの古老の話から確かである。随分と賑わっていたとのことだ。確証はないが、こちらが特飲だったのかもしれぬ。というのは、建物の作りや装飾が、前述の『赤線跡を歩く』に紹介されている他地域の確かな建物と通ずる独特の匂い・雰囲気がある。不思議なものだ。
この花輪屋の装飾や建物前にある雨水桶は、かつての栄華を示す記念物だ。
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花輪屋前にある店名が入った雨水桶
幾多の人のドラマを見続けてきたはずだ |
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花輪屋のガラス戸 |
この花輪屋店舗内でも時代を懸命に精一杯生きた無名の人々の数々のドラマがあったろう。出会いと別れ、涙と笑い、悲喜こもごもの普通の市井の人々が生きた痕跡が刻まれたろう。
だが形あるものはいつの日か無くなり、姿を消す。そして人々の記憶からも忘れ去られ、そして消えてゆく。
玉川村駅の栄華の残照として唯一の建物となった花輪屋とて、そう遠くない将来に姿を消すことになるだろう。訪れるのならば急いだほうが良い。栄枯盛衰。