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2013年2月25日月曜日

静織の里の古代遺跡 その後

昨年末に群馬県渋川市の遺跡から武具を装着した人骨が出土したというニュースがあった。まだ皆さんの記憶にも新しいだろう。
このようなビックニュースは滅多にあるものではないが、どのような遺跡であっても発掘というものにはある種のロマンが漂う。
出土する土器の破片からその全体像や製作した人物を想像し、住居跡の柱の穴や竈の焼土から当時の人の暮らしを想像する。
発掘は、掘ること自体も大事だが、その出土品を洗い、整理番号を付け、図面に記録し、土器などはジグソーパズルのようにつなぎ合わせて復元する。さらにそのあとには、専門の学術員が体系だてて情報を整理し発掘調査記録としてまとめ、報告する。この後工程部分も面倒で大変な作業なのだが、この分野が好きな人にとっては全く苦にならない。

         

以前ブログで、那珂市瓜連にある水郡線跨線橋の部分の発掘調査現場を見てきたことを記した。
2012/11/02 ブログ 静織(しどり)の里の古代遺跡
既に現場での調査は終わっており、調査報告書をまとめる作業をしている頃だろう。

先日、再び発掘現場を訪ねた。
まだこの部分では工事が始まっていないため遺跡としては残っているのだが、霜柱により土が崩れ、きれいに掘りあげられていた住居跡や柱の穴は見る影もなく平らになり、単なる凹んだ大地に戻っていた。
たしかここに住居跡があったはずだが
いまでは全く分からない
遺跡の発掘と言うのは、どんな目的があっても、どんな科学的な方法を使っても、やはり破壊でしかないという感じがする。
あと何十年、何百年か後に、もっと優れた技術で調査したら、発見できる事実もあるかもしれない。その可能性を『公共事業』なり『学術調査』という理由を付けて今の時代に絶ってしまうのだ。
そんなこともあって、このように調査が終わって崩れゆく遺跡を見ると悲しく複雑な気持ちになる。

         

常陸大宮市街地から南下し、玉川を渡って那珂市に入った部分のバイパス工事が本格化してきた。この遺跡部分につながる道だ。
市の境を流れる玉川
この橋を越えた那珂市部分で工事が進んでいる
幾つもの重機が激しく動き回っている。
気持ちよく通り抜けられる日もそう遠くないだろう。
この部分が出来上がるころには、台地上の遺跡も埋められて道路の下になるだろうし、人々の記憶からも消えて忘れ去られてゆくに違いない。

常陸大宮市や那珂市の久慈川に沿った台地上は、ほぼすべての場所に間違いなく何かしらの遺跡が眠っている。つまり太古の昔から連綿と人が住んできた場所ということだ。
それぐらいこの地は暮らしやすいところで、豊かな大地なのである。

玉川は常陸風土記にも記された由緒ある川だし、この市境あたりから北ではメノウが今でもごく普通に出土する。
バイパスのまっすぐな道路が完成しこのあたりを通過する際に、道路下にはそんな遺跡があることをちょっとだけでも思い出してほしい。
発掘現場に落ちいてた土師器の破片

2013年1月28日月曜日

県道102号線 東野東原地区 道路改良工事進む

玉川村駅前を通っている県道102号線は、長沢水戸線といい常陸大宮市の長沢(ここ玉川村駅から北に5kmほどの場所)から、水戸市下国井町(常磐自動車道・水戸北スマートIC近く)までの約27.5kmの県道である。
北の始点・長沢地区から南下すると、旧の山方町内である照田地区までは道幅も広く真っ直ぐに整備された道路を進む。
だが、旧大宮町区域内に入ったとたんに幅員が狭くなり、道も地形に沿った昔ながらの狭い道路になる(Googlemapで確認できる)。
場所はここ
この道路部分の整備が遅れた本当の理由は知らぬ。
地権者交渉等、いろいろな事情があったのだろうと思う。
(偶然かもしれないが旧の行政区分の境目でに全く異なることに)こうも違うものかと考えさせられる場所である。

センターラインがある道を気持ちよく進んできたのに、いきなり対向車と譲り合わねばならない程道幅が狭くなり、かつ見通しがきかない曲がりくねった道に遭遇するのだ。
この道を利用しているドライバーにとっては、ちょっとしたストレスであったろう。

そんな難所もやっと道路改良工事が始まり、かつての姿を変えようとしている。
ストレスから解放される日は近いようだ。
県道102号線の中には他にも同様な場所はあるとは思うが、地元民としてはこの450m区間の改良を素直に喜んでいる。
残念ながら家の建て込んでいる玉川村駅前部分や、東野十文字部分等は拡張工事はなされない。

南側から拡張工事始点部分を写す。
看板によれば3月15日までの工期だ。
拡張部分を南側から写す。
道路西側の照田川の竹やぶを埋め立て10mほど広げ
曲線部分を真っ直ぐにするようだ
運行本数は少ないものの茨城交通の路線バスも通っている道路だ。
ダンプカーやトラック類の通行も多い。
この竹やぶに左前輪を脱輪した車(すれ違う時に左に寄り過ぎたのだろう)を目撃したことがある。
もうそんなことは無くなるだろう。
この道路拡張で移転を余儀なくされた地蔵も、新しい場所に既に鎮座している。
拡張部分を北側から写す。
お地蔵様も引っ越し済み(左の電信柱横)だ。
元は緑色の建物(工事現場用トイレだ)の所にあった
         

余談だが、この道路拡張工事部分(A〜B)の東側の一帯には、旧大宮町の大宮町史(昭和52年3月刊)付属の遺跡地図にNo49『東原遺跡 散布地』として記載されている遺跡がある(赤丸部分)。
大宮町史付属の大宮町遺跡地名表より

拡張整備区間はBからAまで450m
学術的な発掘調査はこれまで為されていないが、水郡線とこの県道の間の畑一帯に主に縄文時代中期の土器片、および土師器の破片が見られる。

以下は勝手な想像だが、お地蔵様が元いた場所の近くで、道路拡張に先立ち防火貯水槽工事(県道の東側土手部分だ)が既に終わっているが、この工事で遺跡の一部をおそらく破壊したのではないかと思う。
試掘も含めて調査が為されていないので、散布地域の正確な範囲は分からないのが現状だが、常日頃何か(土器片やら鏃やらメノウやら)落ちていないかと畑の土を眺めながら歩いている小生にはそんな気がしてならない。

そして今度の大規模な道路拡張工事だ。
地元の在野考古学マニアとしては破壊は(あったとして)最小限であって欲しいと願っている。
(クドいが、この道路を使う一市民としては大変有難い有益な道路工事であると思っていることだけはしっかりと記しておきたい)

2012年11月2日金曜日

静織(しどり)の里の古代遺跡

常陸大宮市は中心部を国道118号線が縦に走っている。
旧大宮町中心部は4車線バイパス4.5kmが開通し、人・モノの流れが大きく変わった。
やや信号機が多いと感じるものの、いまや交通の大動脈となっている。

このバイパスを南進し、大手シッョピングセンターを過ぎ坂を下ると、4車線区間が終了する(地区名では上岩瀬)。
GoogleMap==>上岩瀬・玉川
急に車線数が半減するのであるから、当然に渋滞が起こり易い。
4車線化されるのを心待ちにしているドライバー諸氏も多かろうと思う。
国道118号線上岩瀬の坂上から南側を望む。
この坂を下ると市の境界である『玉川』を渡る。
正面に見える森は那珂市下大賀。瓜連・静の台地だ。
この先も4車線化の計画はあり、用地買収を含めて進行中とのことだ。
上の写真の4車線道路が真っ直ぐに延伸して正面の森を突抜け、那珂市瓜連の台地に至る計画で、既に玉川を渡った付近では大型重機が作業しているのが見える。
一級河川『玉川』を渡ると常陸大宮市から那珂市に入る。
国道東側では重機が建設作業中だ
         

この4車線化工事に伴い、那珂市静のJR水郡線・静跨線橋付近(場所はこちら)では遺跡の発掘調査が行われていた。
発掘風景を見かけ、思わず車を止めて見学してしまった。


右の道路がJR水郡線の静跨線橋(北東方向・下り車線方向を写す)
どうやらこの発掘部分が道路拡幅されて4車線化されるようだ
埋蔵文化財発掘現場の標識
どうやらこの遺跡は6世紀〜8世紀あたりの住居跡が中心らしい。
時期的には常陸風土記の記された時代の少し前だが、あるいはかぶっているかもしれない。まさに静織りの里の住人の住んでいた跡である。
作業員が遺跡の記録を進めていた
このようなキレイな状態にするまでの土堀作業が実はエラく大変なのだ
方形の住居跡の掘込みとカマドの跡、土壙がいくつか見えた。
1メートル単位のメッシュを張り、遺物(おそらく土師器が主だろう)の堀上げ作業の最中だった。
しばしこの作業風景を懐かしく眺めた。

         

かく言うワタクシは、学生時代にこのような遺跡発掘作業に狂ったように没頭した人間である。
茨城近隣県にあるC市で学生時代の4年間を過ごしたが、当時彼の地ではモノレール建設やら動物公園建設やらで至る所で遺跡の発掘が行われていた。三十数年前のことである。
そんなこんなで地元学校の考古学研究会メンバーとして、かなりの日数を捧げてしまっていた。(⇨実はこれはまた良いアルバイトでもあった)
当時から『野外』・『土いじり』が好きで、今の生活もその延長線上と言える。

         

このあたりは、常陸国二之宮・静神社にもほど近い瓜連台地の東端である。

古来より人が住んでいた地で、文化的にも進んでいた一帯である。
かの『常陸風土記』に玉川メノウとともに『静織(しどり)の里』として登場する由緒ある一帯である。

右奥の山が静神社の杜だ
遺跡の発掘によってはじめて解明される事実も沢山あるのだが、同時に発掘は遺跡の破壊行為の一面もある。
いまの時点で最新の技術・手法で発掘して分析してはいるものの、将来更に優れた技術・化学分析手法が開発されるとも限らない。
そんな可能性を待たずに、いまの時代の人間のご都合のために、破壊して葬りさっているということでもある。
同じ状態(古代のままの未発掘状態)では二度と発掘できないのである。
(奈良県の高松塚古墳などは良い例だ。壁画が劣化してしまい剥がして保存している。おそらく発掘調査しなければこのあと何百年も極めて良い状態で残ったはずだ。ただ、素晴らしい壁画が世に知られることもないままではあるのだが。。)
恐らくこの『下大賀遺跡』も記録保存されるだけで、近いうちに4車線道路の地下に埋まり、この部分の遺跡が消滅する。

         

発掘調査をしていると、そこで暮らした人々の確かな『生』の痕跡を目の当たりにする。
往時の人が日常で使った土器の破片。寝起きした建物跡。火を使ったカマド跡、など。
学生時代には、小さな土師器の土器片にそれを作った人の指紋が残っていたのを見たことがある。
千年以上前の、人の生きていた証が我が掌中にある。
不思議な縁でたまたま手にした土器。
目を瞑ると、一瞬にして我が心は古代にワープし瞼裏に風景が鮮やかに甦る(・・気がする)。

一般的に発掘調査とは、屋外にあって土との格闘を基本とする、体力を要する作業だ。
さらに局面によっては、地道で根気が要る繊細な手作業も要求される(この遺跡の発掘段階である記録と遺物堀上げがまさにそうだ)。

そして作業環境といえば、夏は日差しを遮る物など無い炎天下での作業だし、冬は寒風吹きすさぶ中での凍える作業であり、決して楽な環境とは言えない。
ただ、古代をイメージするタイムワープの瞑想ができると、楽しくて仕方ない作業なのだ。

今の『農』的な生活にも似たような部分がある。
これから先も、おそらく『土』から離れることは無いのだと思う。