2018年5月28日月曜日

不遇なタケノコ

今の時期、植物は逞しい生命力を見せる。
いくらでも生えてくる雑草などはその代表。屋敷周り、道の端、田んぼの畔、とにかく刈り取るのに甚く労力を費やしている日々である。近所仲間の人たちとの間で口の端に上るのは、たいていが「切りがねぇ(際限が無い)。やんなっちまうよ」だ。
◇ ◇ ◇ ◇
まだ生え続けているタケノコも強い生命力を見せている。
下の写真は、近所で遭遇したタケノコである。
電柱を引っ張って支えているワイヤーに巻いてある黄色いカバー。よりによってそのカバーの中に頭を突っ込んでしまった。近所で遭遇した。

やっと地面から頭を出して、勢いよく伸び始めたと思ったら、黄色いカバーの筒の中に頭が入ってしまった。
なんとま不遇なタケノコであることか。
(・・何がタケノコの幸せかなのは分からぬ。だが少なくとも自由に伸びられないというのはきっと悲しいはずだ)
やはり、頭を出したころに人間に掘られ食に供されて、『いや~美味しかったねぇ』などど言われるのがタケノコにとっての幸せであるのかもしれない。

この黄色いカバーに入り込んだタケノコ、あとどういう運命になったのかは知らない。

2018年5月26日土曜日

たまさとCotton 播種

Cottonの種を撒いた。
酸性土壌を嫌う植物のため、このあたりの土地はそのままではあまり栽培に適さない。
そのために事前に石灰を撒いて中和させておいた。


予定では7月には花が咲き、10月頃にコットンボールが収穫できる見込みだ。
どれほど採れるかはわからぬが、秋から翌春まで(ミツバチの巣箱作り以外で)楽しめそうだ。
◇ ◇ ◇ ◇
難しいことは抜きにして、綿花を素材にしてのワークショップも可能だ。
糸紡ぎ・染色・機織りなど、手間暇かけてカタチにする。
ちょっと大げさだが、効率一辺倒・コスパ重視の大量消費社会のアンチテーゼ。
構想をすこしずつ具体化してみようと思う。

2018年5月25日金曜日

ウルシの花

茨城県のウルシ(漆)の生産高は全国第二位(H25年度)だそうだ。(第一位は岩手県でダントツの651キロ、二位の茨城県が205キロ、三位が栃木県で100キロ)
茨城県と言っても、ほとんどが大子町と常陸大宮市北部だ。なので「奥久慈漆」と呼ばれている。そしてその品質は【日本一と言われている】と、常陸大宮市の広報に記されている
山方から大子に向かう途中の国道118号沿いの山の斜面には、植樹されたウルシの木が立ち並んでいる場所が何カ所かある。生産組合を作って大切に育てている場所のようだ。
2015年から国宝や重要文化財の修理には国産の漆を使うことになって、ますます重要性が高まっている国産ウルシだ。

だが、小生はウルシが大嫌いである。まったく愛がない。
以前も書いたが(2013/1/13ブログ)、子供時代に何度もウルシにかぶれてとても痛い目に合っている。それはそれは辛いもので、その時の記憶は今でもトラウマになっている。
まったくもって憎たらしい存在なのである。
 ◇ ◇ ◇ ◇
このウルシに花が咲く。
ちょうど今がその時期である。けっして派手な花はなく、色も形も実に控えめである。見たことが無い人も多かろう、次の写真の花だ。
ツブツブの小さな蕾がたくさん集まっていて、黄色い花弁が開いてもほんの1~2ミリほど。特別な香りがある訳でもない。

ウルシの花
花は樹全体につくのだが、よほど近くに近寄ってみないと花の姿は見えない。
だが・・・・・、樹下に立つと開花しているのが【耳】で分かる。
どういうことかというと、夥しいたしいミツバチがこの花を訪れていて、羽音がすごいのだ。

個人的には大嫌いなウルシであるが、立派な蜜源の木である。
ミツバチにとってはとびきりのご馳走で、宝の泉のような木だ。
野に花が咲き乱れる時期を過ぎて花が少なくなっている今、これだけ大量にしかも長期間に渡って花を付けている樹木があるというのは、ミツバチを飼うものにとっては実にありがたい存在だ。里山の豊饒さのひとつの表れだろう。神様に感謝だ。

ミツバチが喜ぶ花なのだから仕方ないと(ウルシ嫌いの小生としては無理にでも)納得するしかない。なんとも複雑である。

2018年5月24日木曜日

生命の息吹き

野山の緑は日に日に濃さを深め、すっかり初夏の装い。
ちょっと前まで青々していた麦は、いまではそこだけ異質な黄金色の波。
間もなく収穫の時期。・・・麦秋。


水を満々と湛えた田んぼは水面が晩春の日差しに眩い。カエルの大合唱も続いている。
野山を渡る薫風は夏草の匂いが。汗をかいた身体には心地よく爽快だ。
夕餉の一杯の麦酒はきっと最高だろう。

5月の里山にはいのちが溢れている。生きるエネルギーを強く感じる。

春降る雨は万物生。大地に染み込み、生きとし生けるものに新たな生命力を与えてくれる。毎年繰り返されることなのだが、たまらなく愛おしい。