谷津の奥の奥に、山から染み出てくるわずかな水が溜まる湿地がある。深さは無いが常に一定の水量は保たれている(→つまりジメジメしている)。大きな流れになることが無い水溜まりだ。場所が場所だけに、落ち葉が底にたくさん沈んでいる。人も滅多に入らないため、静寂で清らかな環境といえる。
この湿地に我々がヤマドジョウと呼んできた生き物が生息している。正式にはトウキョウサンショウウオと云うらしいが。
今の時期に、水中に卵のうに包まれた卵を確認できる。
一般的なカエルの卵のようなひも状ではなく、連なったウィンナーソーセージのような形で、三日月形に曲がっている。太さは太い部分で親指ほど。
親の姿を見かけることはほとんどないが、卵だけは毎年この水たまりを含めた数カ所で確認できる。我が家近くの谷津には昔からいて珍しくはないのだが、他の谷津に生息しているのかどうかは分からない。
皮肉なことだが、谷津田の耕作放棄の田んぼが増え、周囲の山も荒れ放題となることで(→表現を変えれば、かつての手入れが行き届いた里山が荒廃することで)、このような絶滅危惧種にとっては住みよい環境が増えている。ちょっとしたビオトープができつつある。
2016年3月30日水曜日
2016年3月27日日曜日
ポポーの芽
毎年、たくさんの実を付け、その特徴ある味覚を多くの方々に楽しんでいただいているポポー。
夏にはホオノキのような、20cmもあるような大きな葉っぱを付ける樹だが、その葉芽は驚くほど小さくカワイイ。ほんの5㎜~10㎜程度。チョコレート粉末をまぶした小さなお菓子のよう。表面は小さな毛でポワポワしている。
この茶色の皮が破れて葉っぱが出てくるのだが、遅い霜に当たるといっぺんに新葉はダメになる。
たぶんそうなるとその年の収穫にも影響があるのではないかとおもう。
さて、今年のポポーはどうだろうか。
東京ではソメイヨシノが開花したそうだが、当地ではまだ先だ。ソメイヨシノより少しだけ早く咲き、ピンクが濃い『陽光桜』がやっと蕾が膨らんで色が見えてきた。開花はあと数日先になるのだろう。
あと半月もすればこの辺りはいっぺんに色とりどりの花畑になる。
夏にはホオノキのような、20cmもあるような大きな葉っぱを付ける樹だが、その葉芽は驚くほど小さくカワイイ。ほんの5㎜~10㎜程度。チョコレート粉末をまぶした小さなお菓子のよう。表面は小さな毛でポワポワしている。
| ポポーの芽 |
たぶんそうなるとその年の収穫にも影響があるのではないかとおもう。
さて、今年のポポーはどうだろうか。
東京ではソメイヨシノが開花したそうだが、当地ではまだ先だ。ソメイヨシノより少しだけ早く咲き、ピンクが濃い『陽光桜』がやっと蕾が膨らんで色が見えてきた。開花はあと数日先になるのだろう。
| 陽光桜 |
2016年3月25日金曜日
旧玉川小学校の木造校舎写真
在りし日の玉川小学校の木造校舎だ。
ある方が撮影していたものだが、懐かしさのあまり再撮影させてもらった。きっと運動会か何かの時の撮影だろう。
小生が在校していた頃とは花壇の様子が多少違うものの、正面の姿はそのままま。
あの頃は何も特に感ずるところがなかったものだが、学校名が変わり(玉川小学校 → 大宮北小学校)、校舎姿が変わってしまった現在、このような画像を見ると無性に懐かしくなる。きっと同じような感慨にふける御仁も多かろう。
いまにもオルガンの伴奏で校歌が聞こえてきそうではないか。
♪その名もゆかし 玉川の ~
※ 恥ずかしながら、歌っていた当時は『その名もゆかし』や『父祖のみ教え』や『朝夕べに』は、まったく意味不明であった。『ゆかし』???『ふそのみおしえ』??? 『あしたゆうべ・・・』??? いま改めて歌詞を見てみると、巧みに地元の自然・歴史を取り込みつつ、子供らが目指すべき崇高な姿を示した内容で、七五調の旋律の素晴らしい校歌であった。老若男女が集まって出身小学校の校歌を歌う市のイベント『うたーべ』でも唱われているはずだ。
玉川村駅舎もそうだったが、昔の木造建築物には古き良き時代の独特の臭いがあった。
大子町にある旧『上岡小学校』の木造校舎ほど趣こそ無いにしても、玉小卒業生としてはいつまでも残してほしかった建物だ。
ついでにこの写真もアップしておこう。
何でもない校庭の写真だ。左側の石碑(記念碑)はそのままだが、このバックネットも運動具倉庫も、桜の老木も今はない。
(玉小 メモ) 開校して143年経つのだった
明治6年 東野小学校 開校
明治17年 第二番区東野小学校と校名改称
明治20年 東野・八田・照田・西塩子・小野の連合小学校となる
明治21年 新校舎建築なる(現建物の北側の畑の場所)
明治22年 玉川尋常小学校となる。若林に分教場を設置
明治23年 小学校令改正により玉川第一尋常小学校となる。
分教場独立によりふたたび玉川尋常小学校となる
昭和13年 現在地に木造校舎新築落成
平成22年 玉川小と塩田小が統合して大宮北小となる
もっと古い玉川小学校の木造校舎をアッブしたい。昭和12年10月21日の上棟式の写真だ。紋付き袴姿の難しい顔のオジサンたちに交じって、キリッとした女教師と思しき姿もある。
掲載されている玉小100年史によれば、玉川村は財政的に苦しかった村だったので新校舎建設に当たっては相当苦労したとある。校庭の東端に立つ石碑(記念碑)はそのときに村内有力者から寄付金を募り、寄付してくれた人の名を刻んでいる。それぐらい教育にかける熱い思いが詰まった校舎なのだった。
ある方が撮影していたものだが、懐かしさのあまり再撮影させてもらった。きっと運動会か何かの時の撮影だろう。
小生が在校していた頃とは花壇の様子が多少違うものの、正面の姿はそのままま。
あの頃は何も特に感ずるところがなかったものだが、学校名が変わり(玉川小学校 → 大宮北小学校)、校舎姿が変わってしまった現在、このような画像を見ると無性に懐かしくなる。きっと同じような感慨にふける御仁も多かろう。
いまにもオルガンの伴奏で校歌が聞こえてきそうではないか。
♪その名もゆかし 玉川の ~
| 玉川小学校 校歌 |
玉川村駅舎もそうだったが、昔の木造建築物には古き良き時代の独特の臭いがあった。
大子町にある旧『上岡小学校』の木造校舎ほど趣こそ無いにしても、玉小卒業生としてはいつまでも残してほしかった建物だ。
ついでにこの写真もアップしておこう。
何でもない校庭の写真だ。左側の石碑(記念碑)はそのままだが、このバックネットも運動具倉庫も、桜の老木も今はない。
(玉小 メモ) 開校して143年経つのだった
明治6年 東野小学校 開校
明治17年 第二番区東野小学校と校名改称
明治20年 東野・八田・照田・西塩子・小野の連合小学校となる
明治21年 新校舎建築なる(現建物の北側の畑の場所)
明治22年 玉川尋常小学校となる。若林に分教場を設置
明治23年 小学校令改正により玉川第一尋常小学校となる。
分教場独立によりふたたび玉川尋常小学校となる
昭和13年 現在地に木造校舎新築落成
平成22年 玉川小と塩田小が統合して大宮北小となる
もっと古い玉川小学校の木造校舎をアッブしたい。昭和12年10月21日の上棟式の写真だ。紋付き袴姿の難しい顔のオジサンたちに交じって、キリッとした女教師と思しき姿もある。
掲載されている玉小100年史によれば、玉川村は財政的に苦しかった村だったので新校舎建設に当たっては相当苦労したとある。校庭の東端に立つ石碑(記念碑)はそのときに村内有力者から寄付金を募り、寄付してくれた人の名を刻んでいる。それぐらい教育にかける熱い思いが詰まった校舎なのだった。
| 玉川小学校100周年記念誌から |
2016年3月20日日曜日
一面の花畑
今日目にした素晴らしい眺め。
ピンクの花が咲き揃った、レンゲ畑と見紛うばかりの風景だ。
実はこの花は『ホトケノザ』。これだけ揃うと圧巻。
東野・法専寺のすぐ東側の畑にて。(写真右奥が法専寺)
| 法専寺のご本尊(阿弥陀如来立像) |
2016年3月19日土曜日
2016年3月16日水曜日
みつばち健康科学研究所
蜂蜜業界の最大手・山田養蜂場は研究施設『みつばち健康科学研究所』を持ち、大学や企業ともタイアップしてはちみつの医学的研究を続けている。
そこのHPでは、いままでの研究で積みあがった成果を多数紹介している。読んでいると『へぇ~』とか『ほぉ~』ばかりだ。(一度ご覧になると良い。美味しいだけのはちみつではなくなること請け合いだ)
はちみつが体に良いとされる科学的知見をこのように説明されると(メカニズム的な部分は到底理解しえないが、結論としての良さがわかると)、はちみつを提供している立場としてはとても嬉しくなる。
2013年8月のレポートだが『蜂蜜による傷の治癒メカニズムが明らかに』という内容は、専門用語満載だが結論として傷口に塗ると治癒効果は高いということが書いてある。
この事実・結論がわかれば小生のような一市民としては満足。
根拠の怪しいウワサ話・迷信的な話や、単なる個人的感想、売りたいがためのコマーシャルフレーズも、このように科学的根拠が明示されれば信じるに足る正しい情報へと変わり、安心する。
このような研究機関からの数多くの発表資料を見ると、はちみつの医学的素晴らしさを真摯に研究されている方々が多いことに驚く。不思議で限りない可能性を秘めた琥珀色の蜜に魅了されてるのだろう。わが身も、だが。
オリジナルの文書 → これ
そこのHPでは、いままでの研究で積みあがった成果を多数紹介している。読んでいると『へぇ~』とか『ほぉ~』ばかりだ。(一度ご覧になると良い。美味しいだけのはちみつではなくなること請け合いだ)
はちみつが体に良いとされる科学的知見をこのように説明されると(メカニズム的な部分は到底理解しえないが、結論としての良さがわかると)、はちみつを提供している立場としてはとても嬉しくなる。
2013年8月のレポートだが『蜂蜜による傷の治癒メカニズムが明らかに』という内容は、専門用語満載だが結論として傷口に塗ると治癒効果は高いということが書いてある。
この事実・結論がわかれば小生のような一市民としては満足。
根拠の怪しいウワサ話・迷信的な話や、単なる個人的感想、売りたいがためのコマーシャルフレーズも、このように科学的根拠が明示されれば信じるに足る正しい情報へと変わり、安心する。
このような研究機関からの数多くの発表資料を見ると、はちみつの医学的素晴らしさを真摯に研究されている方々が多いことに驚く。不思議で限りない可能性を秘めた琥珀色の蜜に魅了されてるのだろう。わが身も、だが。
オリジナルの文書 → これ
2016年3月14日月曜日
内田義信さん
内田義信さんをご存知だろうか。
小瀬の人で常陸大宮市のHPでも紹介されている(p.28)人なのだが、意外と知らない人が多い。ちょっと寂しい。
3月14日(旧暦)は内田義信さんの命日。訳あって自ら命を絶ったのだが、その死は人々にいたく感動を与え、深く心に刻まれた。彼のお墓とされる場所には立派な石碑が建てられている。傍らにはヤマザクラの大木があり、季節には美しい風景となる。

内田さんの正式な名前は『内田弾正左衛門義信』(うちだだんじょうざえもんよしのぶ)という。なんといかめしい前時代的な名前だろうか。それもそのはず、天文9年に亡くなっている大昔のお武家様だ。西暦でいうと1540年なのでいまから574年前である。内田弾正さんは自刃(つまり切腹)して果てたとされる。
内田さんの話とは、おおよそ次のようなものだ(『佐竹読本』高橋茂著 による)。
時は1540年(天文9年)。いまの大宮小学校の場所にあった部垂城とそこの城主だった佐竹義元。太田にいる佐竹宗家の当主義篤は義元の実兄である。いろいろあって義元は義篤からかねてよりにらまれていた。
ある事件をきっかけに、謀反の企てありとして兄・義篤は部垂城を急襲した。不意を突かれた義元、果敢に応戦したが、いかんせん闘う態勢が整っておらず極めて劣勢である。
義元は、同族筋の盟友である小場城と小瀬城に急ぎ使者を送り、援軍の派遣を要請した。
知らせを受けた小場城では『援軍を送ることは、佐竹宗家に対する謀反となる』として援軍要請を黙殺。一方の小瀬城は『援軍を送れば宗家に弓引くことになるが、さりとて見殺しにするは盟友の信義に背く』として城主は迷いに迷った。その時、上席家老・内田弾正左衛門義信は『部垂城に対する援軍の事、臣に一任願いたい。我に考えあり』と言上した。
一任を受けた内田弾正は、我が子の義直を含む13騎を率いて部垂城を目指し急いだ。八田境の部垂逆川まで来たときに、はるか彼方の部垂城の方を望めば炎は天を焦がし落城疑いなしと見えた。内田弾正は従者に向かって『部垂城はもはや落城せり。我らの任務は今ここに終われり。汝ら速やかに城に帰えられよ。予は義のために自害せん』と告げた。しかし帰る従者は一人もなく全員が田子内原の丘に登り、従容として自刃して果てた。その場所がいまの弾正塚であるという。
ちなみに義元は討たれて死亡。部垂城も落城した。

小瀬城主としては援軍を送ること=宗家に反逆することになってしまうところだったが、内田弾正の自刃という形によりお咎め無く決着を付けられた。盟友・義元への義も果たした。内田彈正は家臣としての大義に殉じた訳だ。
(→ 急襲された義元から使者が大宮町内から小瀬まで走り、小瀬城内の軍議を経て、内田弾正が支度を整え八田坂までくるまでには相当の時間が経過している。すでに戦の決着はついていたはずだ。内田弾正はそのあたりことは承知で、当初から自刃する覚悟で出陣したのであろう。小瀬一族存続のために)
現代のわれわれの感覚をもってしては、義を果たすための14人の自刃の意義は到底理解することはできない。内田弾正の自刃はまだわかるとしても、従者の13人の死の覚悟は理解できない。それくらい、戦国時代における宗家と一族諸家との主従関係は厳格で、当時としては当たり前の主君に対する臣下の義だったのだろう。仕えるということは主君のためにいつでも命を投げ出す覚悟であるということ。それくらい義というのは大切にされた重みのあるものだったのである。
『屍は田子内原の草苔に朽ちぬとも義は高々と万天に輝けり』と弾正塚由来記にあるそうだ。
ただし、この内田弾正の話、史実であるか断定できないとされていることだけは記しておく。

旧暦3月14日は新暦4月20日にあたり(旧暦→新暦変換プログラム)、まさに当地ではヤマザクラが葉桜に変わりつつある時分である。
弾正塚の石碑は地元の有志の手で昭和26年に建てられたもの。脇にはヤマザクラの大木。最近のことだが、塚の周辺の藪が大規模に伐採され大変キレイになった。
ヤマザクラのキレイナ時期にでも是非お立ち寄りを。場所はここ。
泉下の内田弾正ら14人もきっと喜ぶに違いない。
ちなみに義元の家臣たちは主君亡き後は、小場城の衆騎(よりき)として預けられ、部垂衆(へたれしゅう)と呼ばれた。佐竹氏の秋田国替えに伴い城主の小場義成とともに秋田に移ったのだが、彼ら部垂衆がまとまって住んだ場所が大館市の部垂町である。ここには義元を神として祀る神社もある。これが縁となって常陸大宮市と大館市は友好都市協定を結んだ(2015/11)。
小瀬の人で常陸大宮市のHPでも紹介されている(p.28)人なのだが、意外と知らない人が多い。ちょっと寂しい。
3月14日(旧暦)は内田義信さんの命日。訳あって自ら命を絶ったのだが、その死は人々にいたく感動を与え、深く心に刻まれた。彼のお墓とされる場所には立派な石碑が建てられている。傍らにはヤマザクラの大木があり、季節には美しい風景となる。
内田さんの正式な名前は『内田弾正左衛門義信』(うちだだんじょうざえもんよしのぶ)という。なんといかめしい前時代的な名前だろうか。それもそのはず、天文9年に亡くなっている大昔のお武家様だ。西暦でいうと1540年なのでいまから574年前である。内田弾正さんは自刃(つまり切腹)して果てたとされる。
内田さんの話とは、おおよそ次のようなものだ(『佐竹読本』高橋茂著 による)。
時は1540年(天文9年)。いまの大宮小学校の場所にあった部垂城とそこの城主だった佐竹義元。太田にいる佐竹宗家の当主義篤は義元の実兄である。いろいろあって義元は義篤からかねてよりにらまれていた。
ある事件をきっかけに、謀反の企てありとして兄・義篤は部垂城を急襲した。不意を突かれた義元、果敢に応戦したが、いかんせん闘う態勢が整っておらず極めて劣勢である。
義元は、同族筋の盟友である小場城と小瀬城に急ぎ使者を送り、援軍の派遣を要請した。
知らせを受けた小場城では『援軍を送ることは、佐竹宗家に対する謀反となる』として援軍要請を黙殺。一方の小瀬城は『援軍を送れば宗家に弓引くことになるが、さりとて見殺しにするは盟友の信義に背く』として城主は迷いに迷った。その時、上席家老・内田弾正左衛門義信は『部垂城に対する援軍の事、臣に一任願いたい。我に考えあり』と言上した。
一任を受けた内田弾正は、我が子の義直を含む13騎を率いて部垂城を目指し急いだ。八田境の部垂逆川まで来たときに、はるか彼方の部垂城の方を望めば炎は天を焦がし落城疑いなしと見えた。内田弾正は従者に向かって『部垂城はもはや落城せり。我らの任務は今ここに終われり。汝ら速やかに城に帰えられよ。予は義のために自害せん』と告げた。しかし帰る従者は一人もなく全員が田子内原の丘に登り、従容として自刃して果てた。その場所がいまの弾正塚であるという。
ちなみに義元は討たれて死亡。部垂城も落城した。
小瀬城主としては援軍を送ること=宗家に反逆することになってしまうところだったが、内田弾正の自刃という形によりお咎め無く決着を付けられた。盟友・義元への義も果たした。内田彈正は家臣としての大義に殉じた訳だ。
(→ 急襲された義元から使者が大宮町内から小瀬まで走り、小瀬城内の軍議を経て、内田弾正が支度を整え八田坂までくるまでには相当の時間が経過している。すでに戦の決着はついていたはずだ。内田弾正はそのあたりことは承知で、当初から自刃する覚悟で出陣したのであろう。小瀬一族存続のために)
現代のわれわれの感覚をもってしては、義を果たすための14人の自刃の意義は到底理解することはできない。内田弾正の自刃はまだわかるとしても、従者の13人の死の覚悟は理解できない。それくらい、戦国時代における宗家と一族諸家との主従関係は厳格で、当時としては当たり前の主君に対する臣下の義だったのだろう。仕えるということは主君のためにいつでも命を投げ出す覚悟であるということ。それくらい義というのは大切にされた重みのあるものだったのである。
『屍は田子内原の草苔に朽ちぬとも義は高々と万天に輝けり』と弾正塚由来記にあるそうだ。
ただし、この内田弾正の話、史実であるか断定できないとされていることだけは記しておく。
旧暦3月14日は新暦4月20日にあたり(旧暦→新暦変換プログラム)、まさに当地ではヤマザクラが葉桜に変わりつつある時分である。
弾正塚の石碑は地元の有志の手で昭和26年に建てられたもの。脇にはヤマザクラの大木。最近のことだが、塚の周辺の藪が大規模に伐採され大変キレイになった。
ヤマザクラのキレイナ時期にでも是非お立ち寄りを。場所はここ。
泉下の内田弾正ら14人もきっと喜ぶに違いない。
ちなみに義元の家臣たちは主君亡き後は、小場城の衆騎(よりき)として預けられ、部垂衆(へたれしゅう)と呼ばれた。佐竹氏の秋田国替えに伴い城主の小場義成とともに秋田に移ったのだが、彼ら部垂衆がまとまって住んだ場所が大館市の部垂町である。ここには義元を神として祀る神社もある。これが縁となって常陸大宮市と大館市は友好都市協定を結んだ(2015/11)。
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