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2018年6月19日火曜日

万緑の中の水郡線

万緑の玉川里山の中を進む水郡線(キハE130系車輌)。
JR水郡線玉川村駅近くの東側山頂からの眺めだ。

正面は照田・長田・長沢地区の山並。
さらに冬になるとこの正面奥には、雪を頂いた日光男体山の姿も確認できるようになる。

なんともいい眺めだ。
この里山は(人間を含めて)ここに生息する数限りない生き物たちの楽園だ。

2017年6月25日日曜日

初音屋 解体撤去される

先日、玉川村駅前の「初音屋」だった古い建物が解体撤去された。
在りし日の初音屋(2017/4撮影)


長い間、廃屋の無残な姿を晒していて、お化け屋敷状態だった。列車からも見えたし、駅前を車で通ったことがあれば、その存在を知らぬ人はいまい。
いよいよ倒壊の危険が大きくなったのであろう、つい先日解体されて今ではきれいに整地された。
2017/6/24撮影
写真左は営業中の二方菓子舗
この建物、一部のマニアにはよく知られたもので、わざわざ訪ねてきて写真を撮る人もいる。なぜこんな建物を訪ねてくるのか地元民にとっては不思議なようだ。
解体撤去されたことを知ったら、残念がる御仁もきっとおられるに違いない。

     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

玉川村駅周辺が賑わい活気に溢れた時期は、大正末期から昭和三十年代後半である。
茨城県北西部の農林産物(葉タバコ・繭・茶・炭・薪・材木・白谷石など)を鉄道輸送するための集積駅として、玉川村駅が大正11年(1922年)に開設され、ひと・モノ・情報・カネがこの地に集まった。当然のように、運輸を担う日本通運の事務所、人を運ぶタクシー事業者、地元の金融を担う農協など、社会機能の諸施設が整備されていった。
時を同じくして、集まりくる人のために宿泊施設と飲食店が開店し、街が形成されていった。宿泊施設は多くが木賃宿である。柴田屋・平和屋などがそれだ。中には「東野屋」というやや格が高い旅館もあったという(現在のみつぎデンキの位置)が、戦時中に店を閉じている。
そして、多数の人が集まるところに飲み屋など飲食・歓楽施設ができるのは必定である。飲食店の代表格は何といっても花輪屋だろう。いまも旧店舗の建物前には大きな雨水桶があり、店名が彫り込まれている。こちらもマニアには注目度の高い建物だ。

駅の後背地人口も多い時代で、通勤通学に駅の利用客も多かったし、それに加え荷役などの仕事で集まる人々も多く、街は活況を呈した。呉服店・洋品店・酒屋・食料雑貨店・自転車屋・菓子屋・魚屋・豆腐屋・電気屋など等が立ち並び、いまの寂れ具合からはとても想像できないが確かに「商店街」があったのである。加えて、小規模ではあったが舞台小屋的な映画館も存在した。まさに玉川村駅前が栄華を極めた古き良き時代である。
Pax-Tamagawa-na。。。

『赤線跡を歩く』(木村聡 著 ちくま文庫 2002年)という本に、この時代の玉川村駅の様子が紹介されている。昭和30年発行『全国女性街ガイド』なる全国の遊里を紹介している本からの引用だ。
『全国女性街ガイド』には、玉川村駅には「特殊飲食店」略して「特飲」と呼ばれた飲食店が4軒、酌婦が17名いるとあるそうだ。ちなみに水郡線の他駅については、上菅谷宿(38名)、常陸太田(48名)、瓜連(特飲7軒)。静駅(特飲2軒、9名)と紹介されていて、駅も町並みもずっと大きい常陸大宮駅を差し置いての、玉川村駅の紹介である。いかに賑わっていたかがこれだけでもわかるというもの。
この『全国女性街ガイド』には軒数・人数だけの記述で、具体的な飲食店名は書かれていないが、ときどき写真を撮りに来ている人たちはこの「初音屋」を特飲の4軒のうちの一軒に比定しているようである。
その理由は、前述の『赤線跡を歩く』に「初音屋」が写真入りで大きく掲載されていることによる。ただこの文庫本でも、単に元料理屋としているだけで特飲と断定してはいないのだが、本を手にすれば著者の思い込みが伝わってくる内容となっている。
全国の有名どころを写真中心にして短文をつけて紹介している。
東京では吉原をはじめとして16カ所、関東各地は横浜・横須賀など14カ所、
関西は飛田新地など6カ所を紹介している。
吉原が8ページで水戸が6ページなのに、なんと玉川村駅ページは単独で4ページもある。
 だが結論から言うと、この「初音屋」の建物はここで接骨院を営んでいたアズマ(東?、吾妻?、我妻?)さんという方の個人住宅兼店舗だったものであり、特飲ではないというのが事実だ。建築当初から、贅を尽くして粋を凝らした建物として知られていたようだ。アズマ氏が廃業・転居した後、別人が小料理屋(飲み屋)部分を増築し、オープンさせたものである。昭和五十年代初め頃まで飲み屋「初音屋」は細々と営業していたので、小生の年代でもよく知っている。
ここには楼にも似た立派な二階部分と店舗裏側の座敷部分があるために、著者の木村氏はそのようなニュアンスで紹介したのであろう。
残念なことにこの特飲なる業態の話は、あまり表立っては話題にしにくい話であるために、当時の様子を知るはずの古老も(本当は知っているのかもしれないが)口が重かったり、話題を回避する傾向にあるので確かなことは不明だ。むろん文書記録などの一次資料は皆無である。

     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

同じく駅前にある『花輪屋』は間違いなく飲み屋だった場所。こちらは女給仕が複数在籍していたことは何人もの古老の話から確かである。随分と賑わっていたとのことだ。確証はないが、こちらが特飲だったのかもしれぬ。というのは、建物の作りや装飾が、前述の『赤線跡を歩く』に紹介されている他地域の確かな建物と通ずる独特の匂い・雰囲気がある。不思議なものだ。

この花輪屋の装飾や建物前にある雨水桶は、かつての栄華を示す記念物だ。

花輪屋前にある店名が入った雨水桶
幾多の人のドラマを見続けてきたはずだ

花輪屋のガラス戸
この花輪屋店舗内でも時代を懸命に精一杯生きた無名の人々の数々のドラマがあったろう。出会いと別れ、涙と笑い、悲喜こもごもの普通の市井の人々が生きた痕跡が刻まれたろう。
だが形あるものはいつの日か無くなり、姿を消す。そして人々の記憶からも忘れ去られ、そして消えてゆく。
玉川村駅の栄華の残照として唯一の建物となった花輪屋とて、そう遠くない将来に姿を消すことになるだろう。訪れるのならば急いだほうが良い。栄枯盛衰。

2016年12月18日日曜日

冬至が近い日

今年2016年の冬至は21日だそうだ。
今は夕方5時過ぎには真っ暗だ。
西の空には夕焼けの残照が僅かに広がり、上方には金星がひときわ明るく輝く。

JR水郡線・玉川村駅のホームの灯りが漆黒の闇に浮かび上がる。
(→街中の夜とは違って、真っ暗闇が田舎では当たり前の姿。灯りらしい灯りは、県道の数少ない街路灯とこのホームの灯りぐらいしかない。)

つつがなく今日1日が終わり、静かに、閑に、暮れ行く。
宵の明星とJR水郡線玉川村駅のホームを照らす灯り
良く晴れ渡った夜空だ。
明日もきっと冷え込んで、朝は霜で一面真っ白になるのだろう。
今日も屋外の水道が1日中凍っていて出なかった常陸大宮市の静かな夕暮れである。

2016年3月25日金曜日

旧玉川小学校の木造校舎写真

在りし日の玉川小学校の木造校舎だ。
ある方が撮影していたものだが、懐かしさのあまり再撮影させてもらった。きっと運動会か何かの時の撮影だろう。

小生が在校していた頃とは花壇の様子が多少違うものの、正面の姿はそのままま。
あの頃は何も特に感ずるところがなかったものだが、学校名が変わり(玉川小学校 → 大宮北小学校)、校舎姿が変わってしまった現在、このような画像を見ると無性に懐かしくなる。きっと同じような感慨にふける御仁も多かろう。
いまにもオルガンの伴奏で校歌が聞こえてきそうではないか。

 ♪その名もゆかし 玉川の ~

玉川小学校 校歌
※ 恥ずかしながら、歌っていた当時は『その名もゆかし』や『父祖のみ教え』や『朝夕べに』は、まったく意味不明であった。『ゆかし』???『ふそのみおしえ』???  『あしたゆうべ・・・』???   いま改めて歌詞を見てみると、巧みに地元の自然・歴史を取り込みつつ、子供らが目指すべき崇高な姿を示した内容で、七五調の旋律の素晴らしい校歌であった。老若男女が集まって出身小学校の校歌を歌う市のイベント『うたーべ』でも唱われているはずだ。

玉川村駅舎もそうだったが、昔の木造建築物には古き良き時代の独特の臭いがあった。
大子町にある旧『上岡小学校』の木造校舎ほど趣こそ無いにしても、玉小卒業生としてはいつまでも残してほしかった建物だ。

ついでにこの写真もアップしておこう。
何でもない校庭の写真だ。左側の石碑(記念碑)はそのままだが、このバックネットも運動具倉庫も、桜の老木も今はない。


(玉小 メモ)  開校して143年経つのだった

明治6年   東野小学校 開校
明治17年  第二番区東野小学校と校名改称
明治20年  東野・八田・照田・西塩子・小野の連合小学校となる
明治21年  新校舎建築なる(現建物の北側の畑の場所)
明治22年  玉川尋常小学校となる。若林に分教場を設置
明治23年  小学校令改正により玉川第一尋常小学校となる。
        分教場独立によりふたたび玉川尋常小学校となる
昭和13年  現在地に木造校舎新築落成
平成22年  玉川小と塩田小が統合して大宮北小となる

もっと古い玉川小学校の木造校舎をアッブしたい。昭和12年10月21日の上棟式の写真だ。紋付き袴姿の難しい顔のオジサンたちに交じって、キリッとした女教師と思しき姿もある。
掲載されている玉小100年史によれば、玉川村は財政的に苦しかった村だったので新校舎建設に当たっては相当苦労したとある。校庭の東端に立つ石碑(記念碑)はそのときに村内有力者から寄付金を募り、寄付してくれた人の名を刻んでいる。それぐらい教育にかける熱い思いが詰まった校舎なのだった。
玉川小学校100周年記念誌から

2016年1月14日木曜日

玉川村駅を利用した(かもしれない)外国人

昨年12月6日のブログに、玉川村駅の国際化などとちょっと茶化した話を書いた。
その中で『玉川村駅に降り立つ外国人観光客などは有ろうはずがない。大正12年の開業以来、皆無に違いない。』などと書き記したが、これは誤りであるかもしれない。
                                           
というのは、玉川村駅から北に5キロほど離れたころに長沢という部落があるのだが、ここに大正11年からアメリカ人牧師夫妻が住み布教の拠点として昭和40年代まで居たのである。
この牧師の活動は布教だけにとどまらず、広範囲にわたっていたため多くの人が彼のもとを訪れ、人的交流も盛んであったようだ。となると彼を訪ねた外国人が玉川村駅に降り立つこともあったかもしれぬ、という訳だ。
(長沢地区に直線距離でもっとも近い駅は野上原駅だが、この駅は昭和31年の開設で当初より無人駅で駅前は何もなし。長沢方面への移動は山を越えて歩きとなる。一方、玉川村駅は少しだけ遠いもののタクシーも配備されていたのでこちらから長沢に向かった方が便利だったはず)

最近あるお年寄りと話をしていて、長沢に牧師が居たという話が出た。その時、昔の記憶がいきなり蘇った。
小学校の時に先生からたしかこのことを聞いたのである。細いことはすっかり忘れたが、『外人の牧師が住んでいた』ということだけ印象に残ったのだった。ただそれとてこの半世紀はすっかり忘却の彼方にあったのだが。先月ブログを書いた時にはまったく思い出さないでいた。

その外人の名は、O.D.ビクスラーという。
詳しくは → 常陸大宮市のたからもの・ひと
茨城関連では、日立市のキリスト教学園の設立に力を注いでいる。
彼が住んでいたという長沢にあった教会兼自宅の建物は、いま那珂市額田のチルドレンズホームの敷地内に移設されている。いちど現地で拝見したことがあり、小ぶりながらなかなか素敵な教会建物だ。

                                           
今も昔も山深い場所で、人家も疎らな長沢地区の、どこにそんな教会があったのか不思議である。
先日、たまたま長沢の道端にいたおばあちゃんにその場所はどこか尋ねてみた。地元の人にとっては自慢できるひとであり、建物であったようで、快く教えてくれた。
場所は、長沢の東の入口近くだった。いま家が建っているが人は他所に越して住んでいないという(典型的な過疎地の空き家だ)。無人とはいえ、ひと様の屋敷・敷地なので立ち入ることは遠慮し、道端から仰ぎ見た。長沢の方にはたいへん失礼だが、こんな辺鄙な場所をなぜ布教の拠点として選んだのだろうか・・などいろいろ考えながら、長沢を離れた。
教会があったという場所の近くにはバス停がある
意外に思うかもしれぬが、玉川村駅は大正12年の駅開業で、以来昭和30年代まで周辺は繁栄を極めたし、長沢地区もこのような先駆的なキリスト教布教拠点で文化先進地だった。
それにしても、今の玉川村駅前も長沢も侘し過ぎる。往時の賑わいは遠い昔。栄枯盛衰。

2015年12月6日日曜日

JR水郡線・玉川村駅の国際化

日本を訪れた外国人が過去最高だそうだ。
既に9月までの累計1612万人の段階で、昨年一年間の来日外国人の総数1340万人を上回ったとか。ビジネス客と観光客合わせての数字だが、増加分のほとんどは観光客であろう。
なかでもやはり中国からの来日客の伸び率は112%で他国を圧倒しているとかで、ニュースにもなるわけだ。そして、東京・大坂など大都市圏や京都などメジャーな観光地では、『爆買』が行われ、これまた話題になっている。だが、常陸大宮市ではおそらく無縁な現象だ。まったく心配はない。
                                           
水戸より北側のこの近辺で、外国人観光客が訪れる場所があるとすれば那珂市鴻巣地区にある『木内酒造』ではないか。
規制緩和後に地ビールの製造を始めたと聞く。当初より、『常陸野ネストビール』の海外輸出に力を入れて、かの地では人気らしい。数々のコンテストでも入賞している。いまでは国内某大手スーパーにも並べられているほどだ。
酒蔵というか醸造所の見学もできるうえ、食事(蕎麦もある)も提供されている。手作りビール工房もありマイビールを作ることも出来るそうだ。
このような見せることを意識したオシャレな酒蔵を実現させ、見学者が多いと聞く。
商品化・ブランド化と、酒蔵そのものへの観光客誘致に成功した地ビール・クラフトビール生産工場の数少ないひとつだろう。
自動車でここに見学に来る外国人もいるのだろうが、ほとんどは水郡線を利用しているのではないかと思われる。
                                           
さて、『木内酒造』を目指してJR水郡線・常陸鴻巣駅に降り立つ外国人だが、一抹の不安を抱くことになるかもしれない。なんといっても寂寥感あふれる駅とその周辺で、とてもそんなビール工場があるところとは思えない。まだ玉川村駅前の方が賑やかなぐらいだ。この風景を前に不安になるのは、日本人の訪問客とて同じだろう。
だが、わざわざ訪ね来ようとするひとはHPを調べるだろうし、駅ホームに立つ『木内酒造』看板の地図(日本語)も参考にもするだろう。それにスマホがあればナビでたどり着くことは十分可能だ。

こうやって那珂市鴻巣は極めて局所的にだが国際化が進んでいる。
                                           
ただ、水郡線を使ってこの『常陸鴻巣』駅よりさらに北に外国人観光客が行くことは、(全くではないにしてもほとんど)ないのではないか。
ましてや、我が愛してやまない玉川村駅に降り立つ外国人観光客などは有ろうはずがない。大正12年の開業以来、皆無に違いない。
富士フィルム関連会社の本社と工場があるので、出張ビジネスマンと思しきスーツ姿の日本人男性の姿は時折見かける(駅利用の大半が朝夕の高校生であり、スーツ姿の人が乗降するだけでも珍しい玉川村駅だ)が、外国からのビジネス客は果たしているかどうか。
あるのかもしれないが、おそらくJRは使わないだろうな。この玉川村駅は。

このような現状だが、でもでもJR東は努力を怠らないのである。
この駅のホームもしっかりと国際化対応を忘れていない。
この写真のように中国語と英語を併記している。

2015年9月18日金曜日

ポポーを無人野菜販売所に並べてみた

ポポーの落果が進んでいる。
なのでJR玉川村駅前にある無人野菜販売所に並べてみた。

昨年、連日にわたって酷い金額不足状態(つまりは黙って持ち去る盗難である)が続いたので辟易して、しばらく店は出さないと決めた。昨年10月だったのでほぼ1年ぶりの開店である。
最近、近所の年寄りから『栗、落ちてっぺ⤴?  並べねぇのげぇ⤴? (標準語訳=栗が落ちているでしょう? 販売所に並べないのですか?)』とか、『なんで店出さねぇの⤴?  もう止めちったのがど思った(標準語訳=なぜ店を出さないのですか?  てっきりもう止めてしまったのかと思いましたよ)』とかの言葉を戴いて、このように心待ちにしてくれているひとが僅かでもいることが妙に嬉しく、少しは気持ちの切り替えも出来たので、再開した次第である。

ポポーの実は、大小さまざま。熟し具合もバラバラ。
一つ一つを吟味しながら実の固さを確かめ、ビニール袋に食べ頃を記入して袋詰めした。
1~3個入りで100円。合わせて7袋できた。
これだけだと売店が寂しいので、いま盛りの栗を一緒に並べた。大粒ばかりを選んで400g詰めて、こちらも100円とした。これは買い得ではないか。

結果はというと、3時間後に様子を見に行ったところすべて売り切れ。
さらには、ちょうど通りかかった懇意にしているオバちゃんから、栗の売り切れを責められつつ、予約をもらった。有り難いものだ。

久しぶりの販売は、まずまずの結果で終わった。むろん、今日の料金箱の中身と販売数は一致である。まだまだ捨てたものではないようだ。
栗は明日もたくさん落ちる。また店に並べてみようと思う。
(((ただし、ポポーは明日の朝にどれだけ落ちているかだ・・・)))

2015年7月3日金曜日

玉川村駅と山方宿駅 開設当時の写真

大正11年(1922年)12月10日に、小生が愛してやまない『玉川村駅』が開業した。
大郡線(現在の水郡線)・常陸大宮駅~山方宿駅間が開通した日である。

この時、当時の鉄道省が『大郡線常陸大宮山方宿間開通記念絵葉書』を作っている。
その絵葉書が我が家の奥から出てきたのでここに紹介したい。
開業当時の『玉川村駅』と『山方宿駅』の写真であり、貴重なものだと思う。
(現在では玉川村駅と山方宿駅の間に『野上原駅』があるが、この駅は昭和31年の開設であるのでこの時点では存在していない)
         
まずは、記念絵葉書が包まれていた包装紙から。
この包み紙の裏面が次の写真。
路線図と建設工事の概要がかかれてある。

絵葉書は玉川村駅のものと山方宿駅のものの2枚組。
上が山方宿駅のもの、下が玉川村駅のもの。
拡大したものを見てみよう。
まずは山方宿駅。おそらく南側から北側を撮影したもの。右のホーム側に駅舎が立っている。
同じ絵葉書に映っているもう一つの写真は、山方宿駅南側にある枇杷川の上の大築堤の写真だ。
この部分は下の田んぼからはずいぶん高くなっている。さぞ土盛りは大変なことだったろう。

次に玉川村駅。駅前の広場から駅舎を写している(南西から北東方向)。
まだ駅前広場は整地が済んでおらず凸凹だ(写真撮影したのは開業の前だから仕方ない)。
この駅舎は平成8年まで存続したが、取り壊されて現在の駅舎に建て替えられた。
この駅舎を知る小生にとっては、なんとも懐かしい姿だ。
もう一つの写真は次のものである。
おそらくここ、國常神社の南側から北東方向の撮影だろう。カーブしている部分だ。この線路の先はすぐに枇杷川の大築堤となる。
         
絵葉書は未使用で、表面はこのようなもの。
一番下の文字は『片岡写真研究所謹製 鉄道省東京建設事務所発行』とある。
         
この記念絵葉書と合わせて保管されていたのが、水郡線敷設に尽力した衆議院議員『根本正(ねもとしょう)』からの年賀状。我が家のご先祖様が頂いたもの(写真は一部加工してある)。
根本代議士からの手紙も多数残っているので、ずいぶんと懇意の間柄だったようだ。

さすが根本代議士はアメリカに留学していただけあって、英語で『I wish you a Happy New Year 1923 Sho Nemoto』と記されている。わがご先祖様は英語の素養はなかったはずなので、ちゃんと『謹賀新年 大正12年1月1日』とも記してくれてある。

ちなみにこれらの葉書は、我が家に保存されている他の古文書類とともに、常陸大宮市の文書館に委託し古い時代の資料として目下、調査・整理中である。

2014年12月8日月曜日

2014年・水郡線C61運行(11) SLフィーバー終わる 真の立役者は

試運転を含めて8日間に及んだSL C61-20フィーバーが終わった。


ホームにかかる歩道橋はSLの煙突の真上だったこともあり
煤で真っ黒になっていた
小生は、最終運転日のSLは通過を見ることもなく、その時間帯は敢えて外出した。
とにかく、連日の傍若無人の振舞いの撮り鉄や、彼らの路駐の酷さに辟易していたこともあり、家にいてもストレスになるだけだと思ったためである。2年前もイライラしっ放しだった。
当日は家人もそれぞれ皆用事があったようで、下りSLの時間帯は完全に我が家は留守になった。
家の侵入路に『立ち入り遠慮ください』の貼紙だけはしておいたのだが、果たしてどうだったろうか。
         
今回のSL運行に当たっては、関係者の並々ならぬ尽力があった。
毎日一部始終を見てきたのだが、そのご苦労には頭が下がる思いだ。
そんな苦労も、無礼な撮り鉄の目には一切入らぬのかもしれぬ。
己の立ち位置とファインダーしか見ていないのだから。
(彼らの撮影機材の記憶メディアにはSLの雄姿が記録されたのだろうが、心の記憶には何が記録されているのか知りたいところだ)
         
中でも一番現場でご苦労されたのは、警備ご担当者の皆さんではなかったか。
午前8時。列車到着の一時間以上前から陽も当たらぬ線路脇に立ち、警備されていた。
あたりは一面霜で真っ白の中である。
毎日遠くからだが声援を送り、首を垂れた。
午前8時。警備員が警備に立ち始める。
上りのSLが来るまでまだ一時間以上ある。
この場所に陽が当たるのはSLが通過するころだ。
毎朝、その姿を見かけると声を掛け挨拶してきたが、皆さん礼儀正しく実に誠実な方ばかりであった。なので今回は安心してお任せできたのである。
一部の不心得な撮影者から罵声を掛けられた場面も見かけたが、淡々と忠実に警備を続けておられた。
ここにも警備員としての立派な矜持があったように思う。
         
このような裏方として決して目立たないものの、重要なその役割がきちんとそれぞれの持ち場でなされてこそ、大きなイベントは成功のうちに終わりとなる。
とにかく玉川村駅では特段トラブルもなく運行が終了したのは、この方々のお陰である。
彼らこそが、真の立役者ではなかったか。

昨日(12/7)の朝8時の外気温はマイナス6℃だった。
とにかくこの地は寒いのである。
畑の表面も白菜の葉も霜で真っ白く。
毎朝こんな風だ。

2014年12月5日金曜日

2014年・水郡線C61運行(10) 本番運行初日 … 産経新聞の記事を読んでほしい

今朝は常陸大宮市の今季最低の気温を記録した朝だった。
上小瀬のアメダスでの公式記録はマイナス1.9℃。我が家の外の寒暖計ではマイナス2.5℃ほど。

朝窓を開けるとあたり一面真っ白な霜。寝ていてもこれは冷えてるぞと、寒さを感じたほどだ。

こんな寒い日の朝も、撮り鉄野郎にはどうやら関係ないらしい。
SL本番運転の初日は金曜日だというのに、まだ日も当たらぬうちから線路際には人影が。
すでに三脚が何本も立った。上りのSLまでには一時間以上あるのに。
警備の方たちが立った時間よりも早かったかもしれぬ。

午後の下りの到着時刻あたりになると、周辺にはおびただしい人と車が集まった。
今日も神経逆なでされるような非常識極まりないな人たちが多く、そのおかげでイライラのしっ放しだった。
いったん書き出すと、またこれらの撮り鉄野郎についての鬱陶しい話ばかりになるので今日は止めておく。

玉川村駅で停車中のC6120のヘッドマークだけ写真に収めた。



 歓喜をもって迎えられるSL・・と言いたいところだが、喜んでいるのは撮り鉄野郎だけだ。
われわれ住民の気持ちを踏みにじるようなギャラリーがあまりに多いので、すぐ傍の住民は素直に楽しめない。気持ちは複雑だ。
産経新聞の記事によれば、沿線各地でトラブルばかりらしい。まったく恥ずかしい。
     産経新聞 12月4日ニュース



SL到着までまだまだ時間があるのに駅近くの県道は路肩駐車だらけ
夕方、玉川村駅近くにある某工場の駐車場(場所はここ)入口に、SL臨時駐車場の看板が立った。
明日(12/6)と明後日(12/7)に向けて、常陸大宮市は2年前と同様に駐車場を手当てしたようだ。そちらに車を止めて駅まで歩いても5分とかからぬのだから、ぜひこちらを利用してほしい。
今回は県警がパトロールを特に重点的に行ってくれている。違法駐車取り締まり(と、撮影者同士のトラブル防止、線鉄道営業法第37条違反容疑で逮捕)だ。
今回は関係者は本気だぞ!!!!    甘く考えていると痛い目に遭う。
(警察はいつも本気だが、特に力を入れている。今日そう感じた)




2014年12月2日火曜日

2014年・水郡線C61運行(9) 試運転最終日

強い木枯らしが吹き荒れた一日。
折角のSLの煙も強風にあおられて横に流れたようだ。

寒風吹きすさぶ中、長時間にわたってその時を辛抱強く待ち、通り過ぎる刹那の快楽に酔う人たち。
試運転は今日で最後。天気も良くて満足いく写真が撮れたのであろうか。

今日は下りのSLが走る時間は外出しており、ちょうど車で走っていた『照田』地区でSLの通過を眺めた。遠くから全体を眺めるのもよいものだ。

当地の紅葉はほぼ終わった
(水戸グリーンCCの看板の前あたり)
 この撮影スポットは有名なので近くの県道に路肩駐車は多い。

今日も満車である。道路にはざっと300mは列をなしているし、横道にもかなりの数の車が入り込んで止められている。試運転の今日でこれである。
本番運行日の通過直前の13:00あたりに、この周辺(照田地区)で駐車場所を見つけるのは困難だろう。ここへ車で来るのは避けたほうが無難である。
玉川村駅までJRを利用(12:00に玉川村着の水戸発の下り列車がある)し、歩いて20分ほどだから何とかなる。

県外ナンバーも目に付く。とにかくご苦労様なことだ。
前は静岡ナンバー。後ろは品川ナンバー。
水郡線のC61-20運行については、いろいろな方が情報発信していることだろう。
実際にはその時にその場所に行ってみないとわからないが、現地から発信されている生の情報をよく吟味することである程度予想はつく。
賢明な行動をとられることを期待する。

本番時には茨城県警が巡回を強化するということだ。
試運転時から警備員は大量配置されて監視している。
ロープを張り、立ち入りを厳しく制限した場所が増えている。
臨時駐車場の情報はない(12/2時点)。                                     いやはや、疲れますなぁ・・・。