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2013年5月10日金曜日

里山から化石 古代からのメッセージ

先だって常陸大宮市の歴史民族資料館が開催した企画展『常陸大宮の地下資源』(2013/1/15〜3/15)では、当地の地下に眠るさまざまな鉱物地下資源にスポットをあてて現物を展示した。なかなか良い企画展だった。
普段目にしている石ころも、研究者にしてみればレキットした歴史の証言者であって、それらの調査研究から実に多くの事象が推察されるようだが、残念ながら浅学の身としては、石ころは石ころにしか見えないのが実に悲しい。

だが、素人にもはっきりと分かるそれらしい姿形のものであれば話は別だ。
我が家の屋敷続きにある山は、主に砂を多く含んだ堆積層(岩と呼ぶには柔らかでモロすぎる)だが、幾重にも重なった地層のなかには化石を含む層がある。
ブログトップに載せている里山の写真の場所である。
この山の奥の部分に、紫黒米を栽培する田んぼがあるし、ヤマドジョウが棲む谷間の沢、水芭蕉を植えた場所もある。

今日見つけた岩の一部には、はっきりと木の葉と分かるものがあった。
木の葉の化石。葉脈が確認できる
同じ層には有機物ではないかと思われるものが多数含まれる部分もある。
丁寧に剥がせはもっとはっきりした形の化石が見つかるのかもしれない
同じ層の砂岩の中からは、真っ黒な粒もたくさん出てくる。
炭化した植物の種子のようにも思える。
少し離れた山の露頭には、貝の化石が多数見つけられる場所もある。
地元民は『貝殻山』と呼んでいる。

いずれもかつてこの辺りが温かな浅海だったり、その近くで植物が生い茂った温暖な地であった頃のものだろう。
その後、茨城北部の男体山の火山活動によって海底が隆起。さらに造山活動により地層が彎曲、浸蝕、現在の姿になった、という数十億年のドラマ。(←受け売りの知識だが、これを企画展で再確認できた)

我が家の山の地層面を見ていると、粗くてもろい砂粒の層だったり、極めて粒子が小さな泥の層だったり、固い大きな岩石(ハンマーも歯が立たないほど固い)が含まれる柔らかな砂の層だったり、と実に多様な地層が重なっているのが見て取れる。
この地層の厚さになるまでには何億年かかったのか知らないが、それをいまこうやって掘り露出させ、その長い時間の流れを一覧にして目にしている。
この木の葉っぱの化石にしても、よもや何億年か後にこうやって日の目を見る、写真に撮られるとは思わなかったに違いない。
そう考えると不思議な巡り合わせだ。

魅力尽きない足下の地下資源。玉川の瑪瑙・火打石は既に有名だが、それだけではない。
この肥沃で豊穣な大地そのものがまさに宝だ。
過疎化は残念だが、なんとまあ魅力的な地域であることか(・・と最近つくづく思う)。

2013年3月7日木曜日

東野村の天保検地絵図

ご多分にもれず常陸大宮市内でもあちこちで耕作を放棄した農地が目に付く。
近年ますます増えている。
担い手の高齢化など理由はさまざまあって、仕方なくそのようにしているのだろう。
このような荒れた田畑を目にするにつけ心が痛む。

かつては山あい=谷津の僅かな田んぼ(いわゆる谷津田)まできちんと耕作され、見事なまでに整った里山の風景が広がっていたのだが。
最近では耕作が容易そうな田畑でも放棄されつつあり、荒れてきている。既に樹木が生育してしまって、原生林状態になっている田んぼが幾つもある。
こうなると元の田んぼに戻すのは容易いことではない。
右側の雑草が生い茂った部分が耕作放棄された田んぼ
かつては左側と同じようなキレイな田んぼだったのだが・・
木を伐採し根の部分を引き抜くという、時間も体力もそして費用も掛かる作業をしないと到底無理だ。
はたしてそこまでして農地に戻す農家があるだろうか。
となれば、このままどんどん原生林化が進んで田んぼとしての機能完全に失われ、回復も無理で全くの自然に回帰してしまうのだろう。

         

この地域の谷津を開墾し耕作可能地にしたのは、江戸時代の中頃ではなかろうか。
天明の飢饉(1782〜1787年)がきっかけではないかと思う。
この飢饉は東北地方の被害が特に深刻だったが、常陸国北部のこの地域でも影響は免れなかっただろうから、おそらくはその強烈な体験から耕作面積を可能な限り増やしていったのではないかと思う。それ以前は人口がずっと少なく耕作が容易なところだけで食べてゆけていたものと推察される。
里山の間に広がる谷津田とは、辛い体験を経た先人が人力を頼りに開墾して食料増産に勤めた苦労が刻まれた土地なのだ。

先日、常陸大宮市の歴史民族資料館に所蔵されている天保15年(1844年)の日付がある東野村の検地絵図を見る機会があり、さまざまな貴重な情報を得られた。
(⇨ 以下の写真は歴史民族資料館の許可を得て撮影したものである)
当時の庄屋は『惣兵衛』さんだ。
組頭として6人ほど名前が見える(が読めない)。
この検地絵図は、片面がA4程の大きさで和綴じの分厚い冊子である。
我が家付近の谷津部分
水色の四角が溜め池で黄色い部分が田んぼや畑である。その周囲の緑がかったグレーは山の部分だ。
上の写真のように谷津の一番奥まで田んぼとなっている。
それらの田んぼ一枚毎に細かな字で所有者の名前と面積(と思われる)が記されている。

この検地図の部分について言えば、現在も耕作されているのは中央の折り目部分から左側部分だけ。あとの右側のYの部分等は耕作を放棄して久しく、既に立ち入ることも出来ないような薮と林となっている。
ちなみに、この水色四角の溜め池は当ブログトップ写真に写しているものだ。
ちょうどこの絵図のYの字部分を左(西)から右(東)に写している。

         

この検地図を見ると1840年代の当地は今よりもずっと人家が少ないということもわかる。
記されている屋敷を示すマークは、いまも現存する古くからの農家の家ばかり。

ついでながら、JR水郡線・玉川村駅が作られた部分は次のような場所だ。
(左の赤い線部分は道路。旧道である)
大正11年に水郡線が図の真ん中を縦に(南北に)開通し、駅舎がこの図の中央部分に作られた。当たり前だが当時は一面の畑である。
この中に、我が家もそして本家筋の家も当時の戸主の名前でちゃんと記されている。

上の写真の一部を接写したのがこれだ。
黄土色で屋敷の位置が描かれており、戸主名と敷地面積などが記されている(ようだ)。
残念だが、古文書解読の知識を持たない小生ではほとんどが読めない。
かろうじて左の家は『新六郎』と読める。右の家は『真次郎』だろうか。
         

この検地図には、上記のような田畑一枚毎の詳細版以外に、全体図が付けられている。
どのあたりにどのような小字(こあざ)があり、人家・屋敷があるかが示されているページだ。
我が家が記されているのは次の部分。位置関係は驚く程正確だ。
JR玉川村駅は真ん中下の方に見える『善』の文字の位置である。
JR玉川村駅の場所は『善久(ぜんきゅう)』という小字だ。
この時までに、それぞれの谷津には溜め池が作られている。
東野の中心地で、宿とよばれる十文字の部分。村の中心地でも家はまばらだった。
ここに鉄道が通るのはこの絵図が作られてから78年後である。
およそ170年前の姿がここにある。
よくもまあこれだけの農家で、この一帯の隅々まで耕作し手入れしていたものだ。
先人の苦労が偲ばれる。そして脱帽である。

2013年3月3日日曜日

日本列島の始まりは茨城からだ 〜 茨城県北ジオパーク

茨城北部の地層はとても興味深い。

常陸太田市の東部、日立市の背後にあたる山には日本最古の地層があるのだという。
『日本最古』である。とにかく一番古いのである。
つまりは日本列島の始まりは茨城からだと言えるらしい・・。

共同通信47ニュース ⇨ 茨城・茂宮川に日本最古の地層 5億1100万年前
その場所はここ ⇨ 常陸太田市長谷町の茂宮川上流部

カンブリア紀(昔、地学の授業で習ったな・・)のものだとか。
古すぎてピントこない。

かつて小生の高校時代、地学の先生が学校の東方にあるその山々を指して自慢げに言っていたのをふと思い出した。
『阿武隈山系南端に位置するあの山々はとても古いもので日本で最古の部類。地質学的に貴重な場所だ。かつてはアルプスのような荒々しい山脈だったものが浸蝕が進んで老年期のなだらかな山になり、そして全体が隆起して今の姿になった。何億年後かにはまた隆起して幼年期の山に戻る』と言っていたのであった。まるでその歴史を見てきたかのように。
・・40年近く経ちすっかり忘れていたが、この記事で突然思い出した。記憶ってのはすごい。
その時分は大した関心も無く単にへぇ〜と思っただけだったが、いまこのようなニュースに接すると、(あの先生も・この山も)すごいもんだと改めて感じる。
あの時(昭和48〜49年頃)に地学の先生が認識していた時代の地層よりもっと古いものが今回見つかったのだけれど・・。

         

先日、常陸大宮市の歴史民族資料館で開催中の『常陸大宮の地下資源』展(2013/1/15〜本日2013/3/3まで)を見たことで興味をそそられたこともあり、常陸大宮付近の地質について調べていると、茨城県北部の地質に関連しての地域観光産業活発化を図る活動があることを知った。

県北の自治体や財団法人、茨城大学からなる推進協議会が『茨城県北ジオパーク』という活動を行っている。
  HPはこちら ⇨ 茨城県北ジオパーク
ジオパーク自体は日本に幾つもある。
茨城県北は2011年にジオパーク指定されている。

見えぬ地下もこのように示され説明を受けると、驚きの連続だ。
普段何気なく眺める山も大地も、また違って見える。

JR東の新幹線車内誌『トランヴェール』の2013年01月号で、ちょうどこのジオパークを取り上げ、特集している。読み易い説明だ。
  トランヴェール 2013年1月号


         

億年単位でものを語る地質学。
人間の一生は、長くてもたかだか100年ちょっと。
尺度が違い過ぎてピント来ないのが正直なところだ。

このHPを見て以降、日立の山々を眺めるとき、この大地が辿った悠久の時を思う。
想像を思い切り働かさないとイメージさえ描けない。
なんとも壮大な話で、ちょっとクラクラするぐらいだ。
そうしているうち、日々のちっぽけなことでアクセクしている自分が馬鹿らしくなる。

この山の目印は日立の煙突が立つ山。古い地層はその西側麓だ。
当地を含め、水戸以北であればたいていの場所から見えるその山並み。
その山々を目にする機会あれば、5億年の歴史をちっょとたけ思い出して欲しい。
市内の八田坂上 大阪平入り口から日立の山々を望む(2011/8撮影)
一番遠方の山々が最古の場所だ

2013年1月22日火曜日

常陸大宮市歴史民族資料館 企画展『常陸大宮の地下資源』

予報が外れ、雪こそ降らなかったが朝からぐずついた雨模様だった。
融けだした先日の雪と相まって地面はグチャグチャ、ベタベタで何をするにも中途半端。
このような日は作業を思い切って休む完全休業日である。

         

常陸大宮市の歴史民俗資料館・大宮館に出かけた。
ちょうど『常陸大宮の地下資源』という企画展を催している。
企画展のパンフレット
表紙の写真は久慈黒石硯だ
古くから産地として有名な砂金・金鉱山、水郡線敷設工事や戦後の東京復興に大いに活用されたという砕石や砂利、江戸で火打石シェアの大半を占めたメノウ、そして砂鉄や硯石など、当地域で採掘されたり生産された各種の鉱物資源の実物が簡潔な説明とともに要領よく並べられている。
他に植物や貝の化石も展示されている。

コンパクトではあるが内容は充実しており、極めてレベルの高い企画展である。
これらを見ていると、我々はなんと豊かな大地に生活していることかと改めて気づかされる。
ぜひ一度ご覧になることをお勧めする。(入場は無料だ)

         

展示品と合わせて、今回の企画展開催に当り市民から個人所有しているメノウの出展を募ったところ多数集まったようで、大小さまざまな珪化木・メノウが展示されている。
大きいものでは幅50cm、厚さ20cm、奥行き40cm程もあろうか、大メノウが2つ並べられていた。
これだけの大きなモノには初めお目にかかった。正直驚いた。
ここまで大きいと立派なお宝である。
我が家のメノウ軒下コレクション中の最大のモノと較べておそらく20倍はあろう。
資料館の展示品は写真撮影禁止なので、その大きさを写真で紹介できないのが残念だ。

         

何気なく見ている我が家の山も、新生代・新第三紀・中新世の玉川層という地層で、1680万年くらい前のものだそうだ。
この地層には化石が多い。
そういえば、近くの山中で露出している岩に、貝の化石が幾つも見つかる場所がある。
我々地元民が『貝殻山』と呼んでいる場所だ。
この付近は太古の昔、浅い海底であった証拠。
子供の頃から貝の化石など当たり前で何の不思議も感じずにいたが、これってすごいことなんだ。
うーん、1680万年かぁ・・、海底火山の爆発、大地の隆起、海進・海退・・・。。。
時間の尺度が違い過ぎて困惑してしまう。
資料館受付で頂いたパンフレットの解説と鉱石の現物を眺め、何億年・何千万年という悠久の時を思った。

         

今日の展示会場は訪れる人も少なく、このような物思いに耽るにはちょうど良かった。
しばし展示品に魅了され引き込まれていたのだが、残念ながら幾度と無く繰り返されるある男性のカメラのシャッター音で興を一瞬にして削がれてしまった。
会場内は当然撮影禁止なのだが(=>壁には『写真撮影はご遠慮ください』と注意書きが張られている)、係員がいないことを良いことに、ほぼ全ての展示品をカメラに収めていた。

退出時に係員の方に確認したらやはり撮影は不可であるとのこと。
先ほどの状況を告げると、驚いていた。
男性は係員とは顔見知りらしく、2人が親しげに話していた内容から察するに(・・・聞こえてしまったのだから仕方ない)この歴史資料館と同様の施設で同様の仕事に携わっている御仁(県職員か?)のようだ。
撮影の許可は特別していないようだったので、資料館の係員もバツが悪そうであった。

おそらく彼には何かしらの特権意識があるのだろう。
あるいは単に彼の民度の問題なのかもしれない。

今回展示されているような鉱石を撮影したからといって、石そのものの性質やら歴史的価値に変化があるとは思えない。
だが中には金鉱山関連の古い紙の展示物(鉱山で働いていた人の給料袋だったか)もあった。

やはり、しかしである。
今回は良くても、企画内容によっては中には古文書や絵画など光で劣化しかねないものもあるはずだ。
やはりこういった場所では一律撮影禁止とするルールが正しい。
どうしても撮影が必要というなら、専門職員による可否判断のもとで慎重に行われるべきだ。

         

このように人の行動はどこで誰に見られているか分からない。

われわれのような一般の入場者がそこにいるのだから(いや、いてもいなくてもだが)ルールは守って欲しかった。
ましてや、展示物の保存に細心の注意を図るべきお立場・職種の公務員であればこそ、だろう。

企画展の内容が良かっただけに、ほんとうに残念な出来事だった。
なんとなく後味が悪いまま資料館を出た。
雨は前にも増して強くなり降り続いていた。